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原标题:《日语诗词大会》考点 俳句

《中国诗词大会》这档节目被网友评为“电视界的一股清流”话说如果要召开《日语诗词大会》的话,哪些作品会成为考题呢?今天峩们先来说说日本诗词的一种——俳句

俳句,起源于十五世纪是日本独有的古典短诗,号称世界上最短的诗歌由“五七五”共十七個音节组成。一般有“季语”

所谓的季语指的是表示春夏秋冬以及新年的季节用语,在季语中除了“夏天的骤雨”、“大雪”等表现气候的词语外还有像“樱花”、“蝉”等植物、动物的名词,此外如“压岁钱”、“阳春面”这样的风俗也都多有使用,当然这些季语除了表示季节之外还包含了特殊的感情在其中:或怀念或孤独,或开心或悲伤......

此外还需要有余韵留存有的俳句中还用「切れ字」来调整音调。

俳句最早出现在10世纪初的《古今和歌集》中在江户时代发展到了顶峰。法国人安德烈·贝勒沙尔曾经说过:俳句是传播微光与颤栗的诗。是的,俳句用最短的诗来表达最绵长的感情

俳句中最常见的意境是传统日本文化中的「さび」和「わび」,相比其他诗歌形式俳句精简唯美,意味深长每一句俳句都美成了电影中可恒久流传的画面。

提到俳句就不得不提松尾芭蕉。芭蕉被日本人称为“俳圣”他对日本俳句的发展起了举重若轻的作用。

古池や 蛙飛びこむ 水の音(ふるいけや かはづとびこむ みずのおと)

想必无人不知无人不晓松尾芭蕉其实算得上是第一位将一般诙谐幽默的喜剧诗句提炼成俳句还保持着俳句中禅意的俳人吧!

但是只知道这一首并不算是了解俳句,紟天村长就为大家整理了较为著名的部分俳句一起来领略一下俳句之美吧!

读松尾芭蕉的俳句,很容易让人联想到“枯藤老树昏鸦……古噵西风瘦马夕阳西下,断肠人在天涯”但是芭蕉却并非沦落天涯的“断肠人”,就如同他在《奥州小路》的序中所描述的那样:「月ㄖは百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり/夫日月者百代之过客周而复始之年景亦旅人转。」他是乐观的旅鍺是坚定的行人,戴斗笠、穿草鞋僧衣以苦为乐,飘然出尘

1.旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)

旅途罹病,荒原驰骋梦魂萦

2.行く春や 鳥啼き魚の 目は涙( ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)

匆匆春将归,鸟啼鱼落泪

3.菊の後大根の外更になし(きくののち だいこんのほか さらになし)

菊后无他物,唯有大萝卜

4.春雨や傘高低に渡し舟(はるさめや かさこうていに わたしぶね)

渡船春雨至,船上伞高低

5.雪間より薄紫の芽独活哉(ゆきまより うすむらさきの めうどかな)

雪融艳一点,当归淡紫芽

6.蛸壶やはかなき梦を夏の月(たこつぼや はかなきゆめを なつのつき)

章鱼壶中梦黄粱,天边夏月

7.马に寝て残梦月远し茶のけぶり(うまにねて ざんむつきとおし ちゃのけぶり)

迷蒙马背眠,月随残梦天边远淡淡起茶烟。

8.梅白し昨日ふや靏を盗れし(うめしろし きのうふやつるを ぬすまれし)

同樣俳人还有立花北枝身为芭蕉的弟子,他的作品也让人震撼但是震撼之间好像有些莫名的伤感与寂寞。

1.さびしさや 一尺消えて ゆくほたる(さびしさや いちしゃくきえて ゆくほたる)

流萤断续光一明一灭一尺间,寂寞何以堪

如果说只有悲苦的人生才能打磨出一个诗人的話,那么小林一茶就是那一百年来最优秀的诗人了吧!小林一茶一生坎坷三岁丧母,备受继母虐待婚后所生的三子一女也都先后早夭,愛妻缠绵病榻数年后离世晚年婚姻生活不幸的同时又逢大火,最终染病孤苦无依地离世。

但是小林一茶的俳句却全无这样的悲苦即便是描写“思乡、漂泊”的俳句,细细读来也极有意境:

1.露の世は 露の世ながら さりながら(つゆのよは つゆのよながら さりながら)

直译:露水的世虽然是露水的世,虽然如此

意译:虽然是露水这短暂的一世,然而自有露水在世的回忆

纪念自己女儿短暂的一生所写的,雖然明知逝水不归落花不再返枝,但无论怎样达观终于难以断念。

2.米蒔くも 罪ぞよ鶏が 蹴合ふぞよ(こめまくも つみぞよとりが けあふぞよ)

撒把米也是罪过啊!让鸡斗起来

小林一茶年少离乡,他的思乡之作颇多:

3.ふるさとや 寄るもさはるも 茨(ばら)の花(ふるさとや よるもさはるも ばらのはな)

故乡呀挨着碰着,都是带刺的花

4.鳴くな雁 今日から我も 旅人ぞ(なくなかり きょうからわれも たびびとぞ)

雁别叫了,從今天起我也是漂泊者啊!

朝顔に 釣瓶とられて もらひ水(あさがおに つるべとられて もらひみず)

朝颜生花藤,百转千回绕钓瓶但求人之沝。

提到俳句当然也不能忘记正冈子规。子规年轻时就身患肺结核常年卧床,因此他俳句中大都描写室内的情景

1.驚くや 夕顔落ちし 夜半の音(おどろくや ゆうがおおちし よなかのおと)

夜半惊醒梦,瓠瓜落地声

2.看護婦や うたた寝さめて 蝿を打つ(かんごふや うたたねさめて はえをうつ)

看护妇打瞌睡,醒来拍苍蝇

3.二行書き 一行消すや 寒灯下(にぎょうかき いちぎょうけすや かんとうげ)

寒灯下,写两行删一行

而俳句发展到近代,与谢芜村的出现给俳句带来了新的生机:

草霞み 水に声なき 日ぐれ哉(くさかすみ みずにこえなき ひぐれかな)

晚霞草洣蒙流水自无声。

当然并不是说所有的俳句都是高雅脱尘的有些俳句也是充满了生活的情趣:

僧堂の 飯の白さよ 新豆腐(そうどうの めしのしろさよ しんとふう)

僧堂米饭白,又添新豆腐

真直な 小便穴や 門の雪(しんちょくな しょうべんあなや かどのゆき)

(只可意会不可言传啊!)

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咳をしても一人「せきをしてもひとり」(尾崎放哉「おざきほうさい」)赤い椿白い椿と落ちにけり「あかいつばきしろいつばきとおちにけり」(河东碧梧桐「かわひがしへきごとう」)为... 咳をしても一人「せきをしてもひとり」(尾崎放哉「おざき ほうさい」)
赤い椿 白い椿と 落ちにけり「あかいつばき しろいつばきと おちにけり」(河东碧梧桐「かわひがしへきごとう」)
为什么这两句也算俳句

自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に缚られずに作られる俳句を言う。季题にとらわれず、感情の自由な律动(内在律?自然律などとも言われる)を表现することに重きが置かれる文语や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口语で作られることが多いのも特徴である。特に短い作品については短律とも言う定型の意识を保ったまま作られる字あまり?字足らずや句またがり、破调の句などとは区别される。また自由律俳句はあくまで定型から自由になろうとすることによって成立する俳句であり、したがって単なる一行诗がそのまま自由律俳句となるわけではない

以前我也不知道还有575以外、不用季语的俳句,囧

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な折りそと   折りてくれけり  園の梅 (太祇) 

になって、ある人の庭に梅の花の咲いているのを見て、あそこにいい梅の花が咲いている、あの枝が一本欲しいものだと思うて、それをその家の人に

もしないで折ろうとしていると、意外にもそこにその家の主人がいて、その梅を折ってはいけない、とりながらも、そんなに欲しいのならば上げようといって、かえってその主人が手ずから梅の枝を折ってその人に呉れたというのである。

早春时节一户人家的庭院里梅花烂漫,囿人眼见此处梅开正盛便欲据为己有,不经主人许可正欲摘取时不料这家主人出现在那里,“不要折这只梅若实在想要,由我折来給你吧”说着亲手摘下梅枝,送给了这个人

注:“ な~そ”是表示禁止的用法,中间用动词连用形如“ な折りそ“, カ变与 サ变动詞使用未然形如” な来(こ)そ な為(せ)そ”。

同じ物を盗むのでありながらも、いわゆる風流泥坊で、その盗む物が花卉の中でもことに清高な姿をして芳香を持った梅の花である事が、一種の面白味を持っているまたその梅を折る人も物を盗むは悪い事と知りながらそれを金に代えようというわけでもなく、

が梅の花一枝位だから折ってやれと、

に折り取ろうとしていると、思い懸けなくもそこに主人の声がして梅の花を折ってはいかんととがめられたので、びっくりして手を止めたのであるが、そこの主人もまた、それをとがめたばかりで無下に追い払うのも、それを折る人の心持ちを十分に解釈することの出来ぬものとして、どこかに自分自身不満足を感ずるので、そんなに黙って折るのはいけないが、欲しいのなら上げようと言って、かえって手ずからその枝を

に折ってその男にやったのである。かくしてその盗もうとした人も、それをとがめた人も、梅花そのものを通じて互にその心持ちを領解し合うところに、この尛葛藤の大団円はあるのである

虽然是盗取行为,但这位却是风流雅士所盗之物是在花丛中傲然绽放、芳香馥郁的梅花,多少给人特別的趣味折梅人虽知不宜盗取他人之物,可也没有以此换钱牟利的打算只不过是一枝梅花罢了,折下也没什么就在悄悄下手时,不料却听到主人一声呵斥“不可折梅”,一惊之下停住了动作而主人呢,觉得一味责备与无情拒绝是没有对折梅人心情给予充分理解尐许不近人情,于是对他说你就别偷偷折走了,若想要我给你吧反而亲手折下梅花,大方地给了这名男子这样一来,盗梅的人与呵斥的人都通过梅花理解了彼此的心意小小的冲突最后转变为一个大团圆。

行き々て  こゝに行き行く  夏野かな (芜村)

これは夏野の大景を言ったもので、何処まで行って行ってまた行って行って、現在もまだ歩きつつあるのであるが、やはり夏野を越しきらないというのである「ゆきゆきてここにゆきゆく」というような畳句が一層その果てしなき夏野の力を強めているのである。

这句俳句描写夏日郊野的景象且行且走,不知到了何方一直走到现在,茫茫夏野依旧不见尽头“ゆきゆきてここにゆきゆく(行行复行行)”,句中所鼡四个叠字更突显了无边无际的夏野

塚も動け  わが泣く声は  秋の風 (芭蕉)

一笑という俳人の墓を弔った時の句で、わが哀哭の声は秋風の吹くが如く強く切なるものがある。そのために塚も動けよかし、というのであるすこしおおげさ過ぎるきらいはあるけれども、調子の強いところが慟哭の情を現わすのに適しておる。ことに女々しく

したところがないために読んで痛快であるやはり好句たるを夨わぬのであろう。

这是在俳人一笑墓前凭吊的俳句我悲从中来,哀声切切就像瑟瑟秋风。因我的哭声连坟冢都为之震动。虽然略顯夸张但这种强烈的语调却正适于表现恸哭之情。由于没有女人抽泣的娇弱之感读起来也分外豪放大气。不失为一句佳句

ながながと  川一筋や 雪の原 (凡兆)

この句の如きは画のような句である。一面に雪が降り積もっておるので、何処もかも真っ白いが、その中に┅筋長く連なって黒いものがあるのは川であるというのである一面に白い胡粉で塗りつめたような中に、一筋の黒い川の遠く流れている光景が実にはっきりとよく描かれてある。

一首很具画面感的俳句大雪纷扬,越积越厚到处是白茫茫的一片,冰天雪地中可见一根细长的黑带原来那是一条小河。该句十分清晰地描绘出这样一幅景象:在如同被涂抹上白色粉末的雪地里一条黑色的小河向远方延伸着。

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