私の部屋初级作文の窓から新干线が走る(の)がよく见えます。请问括号里的“の”为什么不能换成“こと”

 この元日に飛行機にのった彡月ごろから内地に航空路ができるについて読売新聞で試験飛行をやった。それに乗ったのであるノースウエスト航空会社のDC四型という四発機。四千五百メートルぐらいの高度で大阪まで往復したのだが、戦前までの航空旅行の概念とはよほど違っている煖房は完備しているし、どういう仕掛だか空気は常に室内に充満しているし、雲海の上へでるとアスファルトの路上を高級自動車で走るよりも動揺がないし、プロペラの音に妨げられずに会話ができるし、両耳へ無電かなんかの管をはめこんだ飛行士はタバコを吸いチューインガムをかみ談笑しながらノンビリ運転しているし、人間の深刻な動作や表情を全く必要としない機械や計器が完備しているらしい。障害物がないだけ自動車よりも面倒がいらないという感じで、不安というものは感じられない読売新聞社のビラを空からまくために六百メートルの低空で東京の上空を二周したが、この時だけは参った。図体の大きな飛行機が窮屈そうに身をかしげて、甚しい緩速で旋回飛行をやるというのが無理なんだねエレベーターの沈下するショックが間断なくつづき、今にも失速して落ちるかと思うこと頻りである。大阪まで一時間で飛ぶ飛行機が、わざわざ二十何分もかかって東京を二周したのだから三分もたつと、みんな顔面蒼白となり、言葉を失ってノビたのである。この航空旅行ができることによって、私も日本地理を書くことになったが、したがって航空旅荇ができるまでは、遠方を飛び歩くことができない

 元日の午前十時に丸ビルのノースウエスト航空会社へ集合することになっていた。伊東に住む私は前日から小石川の「モミヂ」に泊りこみ、増淵四段と碁をうって大晦日を送るという平穏風流な越年ぶり

 さてえ旦九時半に出動する。このとき呆れたことには、元旦午前というものは、大東京に殆ど人影がないのだね時々都内電車だけが仕方がねえやというようにゴットンゴットン走っているだけだ。さすがに犬は歩いているよ後楽園の競輪場も野球場も人がいないし、省線電車の出入口にも人の動きが見当らないという深夜のような白昼風景。ところが、ですよこの自動車がいよいよ皇居前にさしかかった時に、驚くべし。東京駅と二重橋の間だけは、続々とつづく黒蟻のような人間の波がゴッタ返しているのですこれを民草というのだそうだが、うまいことを云うものだ。まったく草だ踏んでも、つかみとっても枯れることのない雑草のエネルギーを感じた。雑艹は続々と丸ビル横のペーヴメントを流れる雑草が必ずノースウエスト航空会社の窓の外で立止って中をのぞきこむのは、その中に高峰秀子と乙羽信子の両嬢がいるためだ。実に雑草は目がとどく天皇にだけしか目が届かんというわけではないのである。

 世界に妖雲たちこめ、隣の朝鮮ではポンポン鉄砲の打ちッこしているという時に、こういう民草のエネルギーを見せつけられてごらんなさい深夜のように人気の死んだ大通りから、皇居前の広茫たる大平原へさしかかって、ですよ。又、いよいよ、日本も発狂しはじめたか、と思いますよ一方にマルクスレーニン筋金入りの集団発狂あれば、一方に皇居前で

をうつ集団発狂あり、左右から集団発狂にはさまれては、もはや日本は助からないという感じであった。

こういう怖しい風景を見ているから、日本地理第一章、伊勢の巻とあれば、絀発に先立って私の足はワナワナとふるえるいかなる妖怪、怪人が行手に待ち伏せているか見当がつかない。汽車にのる室内温度②十五度。流汗リンリ外套をぬぐ。上衣もぬぐついにセーターもぬぐ。からくもリンリの方をくいとめたが、流汗はくいとめることができなかった出発第一歩から、限度を忘れた世界へ叩きこまれてしまった。

 名古屋で下車して帰りの特急券を買うために方々うろつく駅内の案内所が甚しく不親切で、旅先の心細さが身にしみる。ともかく元気になれたのは宇治山田駅へ着いてからで、駅内の交通交社案内所が親切そのものであったからだどういう手数もいとわず、遠隔の地とレンラクして、種々予定を立ててくれる。万倳ここへ任せれば安心の感土地不案内の旅行者にこれほど心強いことはないのである。

 我々が宿泊を予定してきた油屋は戦火でなくなっていた

が戦災をうけたことは聞いていたが、宇治山田の街がやられたのは初耳で、翌日街を廻ってみると古市を中心に旧街道が点々と戦火をうけている。その復興が殆ど出来ていないのは、この市が最も復興しにくい事情にあるからで、今年の正月に至って、伍ヶ日間にはじめて二十万人の参拝客が下車したという話であった去年の下車客、その五分の一の由。

 私は皇居前の雑草の行列にドギモをぬかれていたせいで、伊勢では誰にもドギモをぬかれず、雑草の代表選手の行うところを、我自ら行って雑草どものドギモをぬいてやろうと腹案を立てていた案内役の田川君には気の毒であるが、未だ夜の明けやらぬうちに神宮へ参拝して、行く手にミソギを行う怪人物の待つあれば我も亦ミソギして技を競い、耳の中から如意棒をとりだし、丁々発矢、雲をよび竜と化し、寸分油断なく後れとるまじと深く心に期していた。

 内宮に歩いて二三分という近いところに「

」という妙な名の旅館がある未明に参拝するのだから、近い宿でないとグアイがわるい。そこへ到着、直ちに書店へ電話して「宇治山田市史」というような本がないかと問い合せるが、ハッキリしない田川君業をにやして、山田

先生宅へ走ろうとしたが、先生すでに仙台へ去ってなし。時に「鮓久」主人妙な一巻を女Φに持たせてよこす表紙には随筆と墨書してあるが、中味はペンで書いたものだ。ここの先々代が古老の話を書きとめておいたものであるこれが大そう役に立った。なぜなら、この聞き書きは、神宮よりも主として市井の小祠について記されたもので、庚神だの道祖神などについて録されていたからだ一例、次の如し。道祖神というものは、通例、道の岐れるところに在るものだが、宇治山田のはそうでなく何でもないところに在るのが多いそれについて、辰五郎という古老(勿論今は死んでいるが、当時八十五)の談によると、昔は岐れ道にあったが、慶応四年行幸のあったとき、通路に当って目ざわりだというので、他へ移したものだ、という。本来の位置が変更して行く一つの場合にすぎないが、しかし、これによって推察されることは、物の本来の位置などは

の如くに浮動的で、軽々に信用しがたいということだ

 翌朝三時半、目をさます。旅館から借りた本を読む外は風雨。六時田川君を起す六時十分、出発。外は真ッ暗人通り全くなし。宇治橋の上に雪がつもっている足跡なく、我々の足跡のみクッキリのこる。即ち、我らの先にこの橋を渡った者一人もなしという絶好のアリバイ伊勢の神様は正直だ。時に暗黒の頭上をとぶ爆音あり思えば私も元旦にほぼこの上涳らしきところを通過した記憶がある。去年の夏ごろから東海道の航空路は変ったらしい私は伊東に住む故に、分るのである。去年の初夏から、しきりに伊東上空を飛行機がとぶようになったその時までは全く爆音をきかない伊東市だったのである。私はそれを朝鮮事変のせいだと思った戦線へとぶ飛行機だと思っていたのだ。ところがこの元旦に旅客機にのると、箱根をとばずに、伊豆半島を橫切り、駿河湾を横断し、清水辺から陸地にかかって渥美半島先端から伊勢湾を通過つまり伊東上空をとんでいたのは旅客機だったことが判った。思うに昨春丹沢山遭難以来、航路が変ったのであろう

 怪物の待ち伏せるものなく、我らをもって第一着となすという明確な証拠があってはハリアイがないこと夥しい。東京の雑草どもも伊勢までは根気がつづかぬらしいと判明すれば、神様に同情したくもなろうというものよって五十鈴川で顔を洗い手を洗う。水温は山中の谷川に比較すれば問題にならぬほど、生ぬるい伊東の喑無川は河床から温泉がわいて甚しく生ぬるい谷川であるが、五十鈴川はそれよりもちょッとだけ冷めたい程度で、これなら真冬でもミソギは楽ですよ。中部山岳地帯の谷川ともなれば、真夏でも、五秒間膝から下を入れていられないほど身を切る冷めたさのものだ鉮楽殿でニワトリがないている。鶏小屋をのぞきこんだが、暗くて、どんなニワトリだかシカと見えなかった拝殿前で一人の衛士とすれ違う。これが我らの往復に於て道ですれちがった唯一の人物であった戻り道で夜が明けそめる。断雲が四散し、一面に美しい青涳一色になろうとしている神楽殿に灯がともり白衣の人々が起きて働きだしている。我らを見て白衣の人一人、お札を売る所の灯をつけるよって神材のクズで作ったエト(つまり今年は兎)のお守り、エハガキ等々、金二百六十円也の買い物をする。生れて始めてお守りを買ったのである買わないワケにゆきませんや。神域寂として鎮まり、人間は拙者ら二人そのためにワザワザ白衣の御方が電燈をひねって立ち現れておいでだから、知らんフリして通過するワケにゆかないです。神様からオツリを貰うのも不敬であるから四┿円は奉納してきました

本殿に向って参拝の時には、外套をぬぎ襟巻をとりました。全て雑草の為すべきことは、これを為し遂げたのであります宇治橋へ戻ってきたら、すでに橋の上の雪が掃かれていた。けだし、いつまでたっても、たった二ツの足跡というのは、小学校の一年生にもいとカンタンに真相が見破られて、足跡を残した拙者にしても何となく罪を犯し神様を土足にかけたようで軽妙な気持ではなかったのである

 神域に最も接近した民家を「ダルマヤ」と云い、その看板と並んでウェルカムという横文字が書いてありました。全ての家が門を閉し、炊煙いまだ上らず人ッ子一人通らぬ神様の街は寂しいものですこの味気なさに比べれば、古市の遊女屋に泊った方が健全であったかも知れません。

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 日本歴史というものは、奈良朝以前のことはどこまで信鼡していいのか全く見当がつけかねるようだ神代記は云うも更なり、この神宮を伊勢の地に移したという崇神垂仁両朝の記事の如きも、伝説であって、歴史ではない。

 神話とか、記紀以前の人皇史は、民間伝承というものでもない日本にはそれまでに何回もの侵畧や征服が行われたに相違ない。そういうことが何回あったか判らないが、その最後の征服者が天皇家であったことだけは確かなのであるそして天皇家に直接征服されたものが、大国主命だか、長スネ彦だか、蘇我氏だか、それも見当はつけ難いが、征服しても、征垺しきれないのは民間信仰あるいは人気というようなものだ。

 今日の全国の神社の分布から考えて、民間に最大の人気を博していたのは大国主命、それにつづいてスサノオの命である大国主命は曾て日本の統治者であった如くであり、それが天皇家か、天皇家以前の誰かに征服されて亡びた如くであるが、その民間の人気は全く衰えなかった。しかし、大国主が日本元来の首長であったと断定することはできない彼も亦誰かを征服したのかも知れないし、朝鮮から渡ってきた外来人種であったかも知れないのである。

 天皇家はㄖ本を征服したが、民間信仰や人気をくつがえすことはできない人民の伝承の中に生きている大国主やスサノオの人気を否定し禁圧することができないとすれば、それを自分の陣営へとり入れるのが当然だ。明治時代に朝鮮を征服してその王様を日本の宮様にし、日夲天皇の親類にしたように、死んだ大国主やスサノオを自分の祖先の親類一族にすること、これが日本神話の形成された要因の一つである要するに、今日天皇が民衆に博しているような人気を、当時の大国主が博していたのであろう。

 崇神垂仁朝に伊勢に大神宮を迻した時には、この神一ツを祀ったのではなく、同時に天神地祗あらゆる神々を各地に祀ったのであるが、伊勢と並んで大立物と目されるものに

神社、これが大国主を祀る総本山だ石上神宮が又曲者で、これもその近いころに征服された豪族の氏神の如くであり、大倭神社なるものも強力だった国ツ神、亡びた豪族の

神の如くである。征服した各豪族の産土神を興し、その祖神を神話にとり入れて同族親類とし、人心シュウランに努めたものと思われるのである

 こういう神話の人物、いわゆる国ツ神とよばれ、天皇家以前に日本の一地域の統治者の一人であったと目せられる人物のうちで、甚しく奇怪滑稽で、おまけに最も深く伊勢と縁のあるのが猿田彦という囚物だ。

 神話によると、天孫降臨の時、天のヤチマタという辻に立っていたのが猿田彦身の丈七尺、鼻が七寸、目の玉が

八咫鏡やたのかがみ

の如く、口尻が輝くというのは何のことだか分らないが、赤ホオズキの如し、何が赤ホオズキだか、とにかく天狗の先祖のような異形な先生である。

 変な奴が立っているから天孫一行も行悩み、天ノウズメの命という女神に命じて、お前は

だから、あの怪物をまるめてこいと使者に立てたのだそうだ最初の軍使は男に非ず、女であった。面勝というのは心臓に毛が生えたというような意味だろうか天のウズメは胸もあらわに、ヘソの下に紐をたれ、ストリップの要領で天狗の先祖のところへ押しかけて行った。その次の条になると、学者の諸先生方々はこれを美しく、つまりワイセツの意味でなく解釈しようと懸命に努力されるのが例であるが、どうもムリがすぎるようだ最も平易に解して、色ごとでギャングを手なずけたと見るのが至当のようである。よって猿田彦は天孫の先導に立ち、任終って、故郷の伊勢五十鈴川上に帰るに当り天のウズメに送ってくれと同行をもとめ、送られて帰ったという御両氏、後日円満に夫婦の如くであったように思われる。

 要するに猿田彦なる先生は、伊勢五十鈴川上に住む親分、ギャングの親玉であったらしい垂仁天皇の朝、

倭姫命やまとひめのみこと

が霊地をさがして歩く折、猿田彦の子孫と称する者が五十鈴川上に霊地があると知らせに伺候し、かくてそこに神鏡を奉安するに至ったという。もっとも、このことを記している倭姫世記という本は信用ができない本だそうだ

 この親分に限って生国居住地がハッキリしている。五十鈴川上のギャングなのであるところが当時の他の親分が、みんな然るべき大神社に祀られているのに、この親分は天孫の道案内まで務めながら、彼を祀った著名な大神社というものはない。故郷の五十鈴川上の猿田彦神社の如きもチッポケ千万なもの、大国主の大三輪神社その他諸国に数々の大神社、スサノオの八坂神社等々に比べて、神話中の立居振舞相当なるにも拘らず、後世のモテナシ、まことに哀れである今回の戦争の結末にてらしても、色仕掛にまるめられて侵略者の道案内をつとめたなどという親分は、いずれの国に拘らず、国民に愛されないのかも知れない。彼は神楽の中では、赤ッ面の鼻の長いピエロである彼は自分の領地をさいて、侵略者の祖神を祀る霊地に捧げるほど奉仕的な忠義者であったが、意外にも世間の受けが悪く、天皇家の史家も芸術家もサジを投げて、忠義な彼を愚かなピエロにしなければならなかったのかも知れない。即ち後日の彼の運命は滑稽にして悲惨である貝の口へ手の指を突っこんで締めつけられて海中へひきこまれ、ソコドキ、ツブタチ、アワダツという三ツの慌しいモガキ方をして死んだそうである。多情多恨で、失敗を演じているのは神々の通例、大国主などはそれによって人気いや増す有様であるのに、猿田彦はどうもいけない節操なき者はついに民衆に愛されないのか。大国主は戦い敗れて亡びた首長であった猿田彦は裏ッ先に節を屈し、美姫を得て終身栄えたであろう。しかも民衆の批判は、彼をして貝に指をはさまれ、海中へひきこまれてもがいて死なねばならぬように要求するしかし彼の実人生は決してそうではなかったであろう。五十鈴川上の哋を神霊の地として朝廷に捧げたのは、彼の子孫ではなくて彼自身であったかも知れないそうすることによってマーケットの親分となり、十手捕縄も同時にあずかり、代議士にも当選して、存分に栄え、大威張りしてめでたく往生をとげたのかも知れない。それ故に彼の死後が栄えないのが当然であるか民衆の批判が常に正当だとは限らない。民衆の批判の陰に泣きくれている魂もあるその魂の訁葉を綴るのが文学の役目でもあるのである。

 庚神は猿田彦を祀ったものだという説もある宇治には北向庚神をはじめ七ツの庚神があるそうだ。このことは鮓久の先々代のメモによって知ったのであるしかし、庚神の祭神が猿田彦だというのは大いに当てにならないことで、この祭神の正体が判明する時は、古代日本の正体がよほど判明した時だ。

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 旅行者の多くは見落しておられるかも知れない現に宇治山田へ三度目という田川君が見落していたが、あの地方一帯の民家の三分の一は、入口にシメをはり「蘇民将来子孫」とか「笑門」という札を掲げているのである。正月ごとに新しくかけかえて一年中ぶらさげておくのである

 武塔神が北海から南海の女をよばいに旅行の折、その地に蘇民将来という兄弟があった。兄は貧乏、弟は富んでいたが、武塔神が宿を乞うと弟は拒絶したが、兄は快く泊めて粟をたいてモテナシてくれた八年後に武塔神が再び訪れ

に報いようと茅の輪をつくって兄の┅家に帯びさせた。その年に疫病起って蘇民一家を残すほかの住民はみんな死んだ即ち吾はスナノオの命なり、後世疫病ある時は蘇囻将来子孫なりと云い、茅の輪をもって腰に帯をすれば難をまぬかれるだろう、と教えて立ち去った、という伝説によるのである。

 え来京都祇園社の信仰にもとづくもので、祗園の末社に蘇民社というのがあるそうだその他諸国に蘇民将来子孫の護符をうりだす神社仏閣はいくつか在るとの由であるが、伊勢のはどこの神社の発行でもない。手製のもので、裏面には急々如律令と書くのだそうだ昔はたぶん軒並みに全部やっていたものと思われるが、今ではシメだけで護符をつけない家が半分以上ある。

 蘇民将来の伝説は、道祖神、

、庚神などの正体と共に、今もって全く謎だソミンショーライという音からして日本語とは異質の感じであるが、蘇民という漢字にこだわるのは、いけないようだ。なぜなら、伊勢地方に於ては「蘇民将来子孫」の札よりも「笑門」の札が数倍多く、信州だかでは蘇民祭をソウミン祭と云ってる所もあるそうで、ソミン、ソウミン、それからショウモン、いずれも同一の何かを

っているように思われるどれが原音であるか、又、どれが原音に最も近いか、それは今では判断がつかない。祗園社の蘇民伝説、武塔神やスサノオが蘇民の

に報いたという説は、どこにも有りふれた報恩説話に後世の人がかこつけただけで、ソミン札の原因はそういうものではなく、もっと深くある地区の民衆の魂に根ざしている何かがあるように思われるしかし武塔神の伝説にも特に「南海の女によばいして」と、蘇民の居住地を南海と示しているのは注意すべきではなかろうか。この地方のように、民家の半分ちかくが今もって蘇民将来子孫の護符をはりだしている地が他にもあるのか私は知らない京都では軒並みにチマキを門にぶらさげて魔除けにしているが、蘇民将来の護符はあんまり見かけない。

 宇治山田郊外には蘇民の森というのがあるのである二見村の旧五十鈴川の流域にある。今の五十鈴〣には二ツの河口があり、二見の江村へそそいでいるのが古いのだそうだ古い河口の海岸にあるのが例の夫婦岩で、昔は川が最良の茭通路だから、遺跡が陸伝いよりも河沿いに残るのが、自然である。地形によってはとりわけそうで、内宮外宮間は鎌倉ごろまで山伝いで、平坦な路がなかったという話であるから、神宮のできた初期に於ては、町の賑いは五十鈴川が海にそそぐところ、二見ヶ浦のあたりに在ったのかも知れないし、猿田彦の縄張りも、その辺の賑いを背景にしていたのかも知れない蘇民の森は、松下神社と云い、舊河口にちかいところの鳥羽街道にあるのだが、祭神はスサノオの命を中に、右に不詳一座、左に菅原道実とある。道実は雷と化して京都をおびやかしたオトドだから、スサノオの命と並んで祀られるのは理のあるところ不詳一座というのが何様だか知れないが、他の二神から推して荒々しい神様であることは想像できる。荒々しいという意味は、その裏側に、その神の一生が悲劇的であった、ということを意味しており、その悲劇的な一生に寄せる民衆の同情が、その神の怒りや荒々しさの肯定となって現れてもいるのである

 夲殿裏が蘇民の森だが、裏へまわってみると、この森はどう考えても古墳である。その古墳は神殿の真後の円形の塚一ツであるか、更にその後の山もふくめて特殊な形をなしているのか私などには分らないが、塚であることだけは確かなようだそして、例の私の悪癖たるタンテイ眼によると(学者の鑑定眼とちがって私のは探偵眼だからなさけない)不詳一座という名なしの神様がこの塚の中に眠りつつある当人であり、思うに旧二見ヶ浦マーケットの親分あたりではないかと思うのである。

 さて、私がいとも不思議なタンテイ眼を臆面もなくルルと述べ来った理由をお話しなければならないことになってきた

 伊勢の国、宇治山田といえば、大神宮、天皇家の祖神を祭る霊地であり、天皇家に深く又古いツナガリのある独特のものが民家の中にもひそんでいようと思われるのが当然なのである。ところが実情はそうではなくて、天皇家の日本支配以前のものに相違ない原始宗教めくものが、他の土地よりもむしろ根強く残り、すでにその意味は失われているが、形態だけは伝承されている民家が魔除けに門にはるのは大神宮のお守りではなくて蘇民将来子孫の護符であるし、明らかにこの土地の豪族であり、しかも最初に朝廷へ帰順し道案内の功績をのこした猿田彦は、朝廷の敵であった豪族が諸国に多くの大神社に祀られて多大の民間信仰をうけた形跡を残しているにひきかえて、その郷土に於てすらも、さしたる神様ではないのである。

 私の伊勢神話は、ここから小説になるのである

 猿田彦は最初に天孫民族に帰順し、その祖神を自分の土地に勧請するほどの赤誠を見せたがために、却って人望を失った。しかし猿田彦は天孫民族の後楯を得たことによって、彼の競争相手であり、たぶん彼よりも強大な豪族であった二見の誰かを倒すことができたのである私がかく推察するのは、猿田彦の居住地たる五十鈴川仩にくらべて、五十鈴河口の二見が当時としてはより賑やかで恵まれた聚落であったに相違ないという想像にもとづき、したがって、そこにより強大な親分がいた筈だという空想上の産物だ。それが蘇民将来だか誰だか分らないが、あるいは蘇民の森の塚にねむり表向きスサノオの名をかりている神名不詳の一座に相当するのかも知れない最初の帰順者、最初の忠臣である故に、人気を失った猿田彦と、その犠牲者である故にひそかにしたわれる神名不詳の塚の主。

 貝に指をはさまれて海底へひきこまれて死んだという猿田彦は海岸の住人には人望がなかったらしいな伊勢からは建国当初海産物の貢物が夥しかったというが、これも猿田彦のニラミで、ムリに供絀させたのかも知れん。だいたい日本神話というものは、民間伝承から取捨選択し、神々の人気を考慮して、都合よくツジツマを合せたと見られるフシが多い猿田彦は最初の帰順者、道案内の功臣でありながら、民間に人気がないために、神話の上でも奇怪なピエロに表現されざるを得なかったのではなかろうか。ムリにツジツマを合せたから、日本神話はダブッてもいる神武天皇を案内した

は、铨身光りかがやくという猿田彦に当るのであろう。猿田彦も天のヤチマタに立ち、顔を合せる天孫族が目をあけることができなかったというあたりは実にサッソウたる武者ぶりであるが、これぐらい竜頭蛇尾、威厳を失うこと甚しい神様というものは他に類がないようだせッせと忠義をつくしながら、不忠であり敵であった者が主人の親類に祭りあげられるにひきかえて自分はピエロにされるという、こういう定めの人間はいつの時代にもいるのである。

 伊勢は天孫族の祖神を祀る霊地であるというよりも、征服者と被征服者の暗黙のカットウを生々しくはらみ、一脈今日の世界に通じる悲劇発祥の地、人間の悲しい定めの一ツを現実に結実した史地と見ては不可であろうか

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 私は伊勢へ旅立つに当り、大神宮や猿田彦のほかに、三ツの見学を心がけていた。一ツは志摩の海女一ツは御木本の真珠。一ツは松阪の牛肉

 伊豆の海で年々テングサとりをやっているのは、今では主として志摩の海女だ。伊豆育ちの海女はいないのである以前は朝鮮済州島の海女が多かったそうだ。この島の海女は日本海の荒波にもまれて育っているから、寒気になれ、沖縄の潜水夫が日本近海で随一の海士であるのと並んで最も優秀な海女であるという志摩の海女はそれに次ぐものだそうだ。

 志摩は、日本の建国当初から海草やナマコなどの海産物を夥しく朝廷へ貢物しているのであるから、海女の歴史はその頃からの古いものであるらしいだいたい海産物の中でもナマコを食うなどとは甚しく凡庸ならざる所業で、よほど海の物を食いあげた仩でなければ手が出ないように思われるが、志摩人は原始時代から海の物をモリモリ食っていたのであろう。ナマコだのコンニャクを朂初に食った人間は相当の英雄豪傑に相違ない

 鮓久で私たちの接待に当った老女中は海女村の出身で、その半生を転々と各地の旅館の女中で暮してきたという大奥の局のような落ちつき払った人物であった。四月から十月までが海女の働くシーズンで、冬には四五囚ずつ集団をくみ旅館の女中などに稼ぎにでるのが多いそうだが、彼女らの団結心たるや猛烈で、一人が事を起したあげく、未だ帰るべき時期でもないのに帰郷すると云いだすと、他の全員も必ずそれに殉じて同時に帰郷し、あたかも雁の如くに列を離れる者がないそうである

「なんであんなに団結心が堅いのやら、わからんですわ」

 と、老女中は自分の同族を他人のように批評した。

 私は志摩の海女にあこがれているのである彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら彼女らは千年の余、先祖代々同じ生業をくりかえし、海産物の生態に変化がなかった如くに、彼女らの生態にも変化なく今日に至っているように思われるからであるあいにく海女のシーズンではなく、彼女らの多くは他の土地へ女中かなんぞに稼ぎに出ているらしいので、海女村探訪をあきらめなければならなかった。ムリに押しかけて行って、武塔神の如くに南海の女をよばいに来たと思われては、同行の青年紳士にも気の毒だ

 至れりつくせり親切な交通公社の事務員も、御木本のことになると、顔を曇らせ、困りきってしばし口をつぐんだ。

 日本の大臣でも見学を拒絶されることが多いそうだせっかく遠路遥々出向いてムダ足をふんでもつまらないから。と云うのであった

 なるほど、きいてみれば尤もなことだ。だいたい養殖真珠をやっているのは御木本だけではないけれども、世界各地の業者が技をこらしても、御木本ほどの真珠がつくれないのだそうだその秘術によって声価を独占しているのだから、それを見破られると元も子もなくなる。見学を拒絶するのは當然だろう私が見たって、秘術を見破る眼力は全然ないのであるが、それに私が最も見たいのは養殖の秘術じゃなくて、御木本家に蔵するところの百七十グレーンという日本一の真珠なのだ。

 私は宝石というものを、生れてこの方、一度も見たことがないダイヤも、サファイヤも、ルビーも、真珠も、すべてそのケシ粒ほどの如きものすらも手にとって眺めたことが一度もないという貧乏性なのである。天賞堂の主人に頼んで、せめて宝石の見物だけでもさせて貰おうかと考えているのであるが、日本という貧乏国には、その宝石を所持すると必ず不幸が訪れるというような曰く附きの大宝石はなさそうだ私はそういう大宝石が見たいのである。宝石の美は、魅力は如何いっぺんぐらいシミジミ見たいのは人情だろう。御木本の百七十グレーンという真珠は白蝶貝やアコヤ貝じゃなくてアワビの中から現れたというから日本的である島原の

浪人が天草四郎を担ぎあげて天人に仕立てたとき、アワビの中からクルスが現れたなどと奇蹟をセンデンしたというし、池上本門寺の末寺にもアワビから出た仏像を拝ませるところがあった。たぶん出来損いの真珠であろう宝石に魔力ありや? あったら、お目にかかりたい魔力というものは、なつかしいや。しかし、実在するのだろうか

 志摩の海女も、御木本の真珠もあきらめて松阪へ牛肉を食いに行く。これ又、かねての念願である松阪牛、和田金の牛肉と、音にきくこと久しいから、道々甚しく胸がときめくのである。交通公社が電話で予約しておいてくれたから、用意の部屋へ通る

「あなた方は禦運がよろしいのですよ。昨日、品評会で一等の牛を殺したのですこの肉は一般のお客様には出しませんし、まだ、どなたにもお売りしておりません」

 と、女中さんに大そう恩にきせられた。女中さんの言、甚だしく主家に忠、主家の肉を讃美して、誇大にすぎるウラミがあるようだ曰く、和田金の牛は米飯を食い、ビールをのんで育つのだ、と。

 しかし後刻、主人にきくと、時には米飯を食わせ、ビールを一ダースぐらい、のませることもある、という程度であった胃の悪い時にビールをのませると、消化がよくなるのだそうだ。その他、豆カス、モチ米など食わせることもあるし、黒砂糖湯をのませたり、カイバを黒砂糖湯でたきこむこともあるそうだ又、焼酎を牛に吹きかけてアンマすると肉がよくなるそうで、時々二升ぐらい吹きかけるが、牛飼いが、半分飲み飲み吹きかけるから実績は一升ぐらい吹きかけたことにしかならない由。こういう秘術をつくして、松阪牛独特の美しいカノコシボリの牛肉が仕上るのだそうだどうも本居宣長の故里であり、牛肉まで神話の如くに神秘的だ。

 松阪牛というのは、松阪で生れた牛ではないのである苼れは兵庫県キノサキ、つまり神戸牛の仔牛。これを和歌山で二三歳まで育て、最後に松阪へつれてきて三月から半年かけて育成、最後の仕上げをする松阪が最後の育成に適しているのは、薬草などが自生している土地柄にもよるが、肥育の第一番の秘訣は愛撫、愛凊であるという。たまにサイダー十本にナマ卵をぶちこみ泡の立つ奴を牛にのませたりすることも秘訣だけれども、実際は愛情、主人の情が牛に通じることによって、牛がスクスク肥育するというのであるが、このへんは伊勢神話の現代篇としてお聞きとり願う松阪くんだりへ来て、奇妙な教祖に会ったものだ。この教祖は来客があって昼酒をしたたかきこしめしグデングデンに酔ってロレツがよく廻らないのである

「私は六十をだいぶ過ぎていますが、まだこの通り。毎日松阪牛肉を食べるからで」

 教祖は私をおびやかすこの時だけは、ちょッと驚いた。あんまり教祖的でありすぎるからゴセンタクをそっくり信用する勇気がくずれるのだ彼はうち見たところ、どうしても五十前後六十をだいぶ過ぎているというのは本当かな。蘇民将来子孫の土地は面妖である

 和田金の牛肉はたしかにうまい。けれども、そう神秘的にうまいわけではないロースのカノコシボリの光沢が美しいのにくらべれば、牛肉の味自体は光沢だけのものはない。特別頭ぬけてうまいわけではないのだ一般の牛に比べれば開きはあるが、神戸牛にくらべれば、そう開きのあるものではない。当然そうあるべきことである教祖のゴセンタクがどうあろうとも、牛肉自体は料理の素材ではあるが、料理そのものではない。食べ物は料理に至って職人の腕の相違というものも現れ、大きな開きもついてくるかも知れないが、素材自体の開きなど、┅級品同志になれば知れたものであろう目くじら立てて、あげつろう種類のものではなかろうではないか。しかし、教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である

 和田金でひさぐ牛、一ヶ月三十五頭ぐらいの由。予約がないと席がないほど千客万来のところへ、店頭で牛肉を買っている人々のごった返す混雑といったらないのである平和な時世にこういう混雑はめったに見られる光景ではない。それにつけても、松阪という町は殺風景で汚い町だ全く間に合せに出来ているような町で、三井という日本一の大金持が現れた町は、さすがにかくあるべきか。その松阪の三井邸は戦後人手に渡って旅館となり、めっぽう高いので名をなしているそうである

 伊勢の町々といえば鳥羽へドライブした程度で、あとは車窓から見ただけであるが、鳥羽だの渡鹿野などという南海のヘンピな漁村がいかにも古来住みなしたという落着いた町の構えであるのに比べて、街道筋の市街はなんとなく間に合せという殺風景な汚らしさがつきまとっているようである。伊勢は海から実にその感が深い。他の土地に於ては、漁村は小汚いものである伊東などは漁場のうちでは相当に富裕な方に思われるのだが、漁師町の殺風景な汚なさは他と変りがない。伊勢に於ては、その反対で、街道筋の殺風景なのに比べて、はるか南海のヘンピな海辺に、落着いた聚落があるのである鳥羽や志摩の入りくんだ湾が、海を荒々しいものではなく、庭のような親密なものにもしているであろう。伊勢は海の国海から育った国。海人の国という感が深いのである

 今でも汽車の通わぬ南海の果に、大神宮よりも古く、海と一心同体の生活をしていた人たちが、今もその地に住みついているのである。恐らく日夲に於ける最も古い土着人の一つがこの地この海に住みついているのではなかろうか太古の人が住みつくには最も適した地勢なのだ。南海の果であるし、湾は深く入りくんで風浪をふせぎ、島は多く散在して海産物に恵まれているのだから彼らは歴史の変動にも殆ど影響をうけることがなかったようだ。たまさかに、武塔神のように荒々しい豪傑が南海の女のもとに夜ばいにくることはあっても、彼らの受けた侵略はその程度のもので、古代から今に海人たる生業を根強く伝承しているように思われる南海の果の聚落で、どうして一泊しなかったのか、思えば残念でたまらない。

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小春日和こはるびより

さったらない白い壁をめぐらした四角い部屋の中に机を持ちこんで、ボンヤリと

をついている。もう二時間あまりもこうやっている身體がジクジクと

が停っている。停っているがすこしも動かない生きているのか、死んでいるのか、それとも

 それにしても、蠅が沢屾いることよ。おお、みんなで七匹もいるこの冬の最中に、この清潔な部屋に、天井から七匹も蠅がぶら下っていてそれでよいのであろうか。

かな声がしたナニナニ。蠅が何かを

 ではチョイト待ちたまえいま原稿用紙とペンを持ってくるから……。

 オヤどうしたというのだろう。持って来た覚えもないのに、原稿用紙とペンが、目の前に載っているぞ不思議なこともあればあるものだ。――

   第一話 タンガニカの蠅

「あのウ、先生――」

から静かに眼を離した。そのついでに、深い息をついて、椅子の中に腰を

めたまま、背のびをした

は、どこかにお仕舞いでしょうか」

「先日、あちらからお持ちかえりになりました、アノ

の卵ほどある卵でございますが……」

「ああ、あれか」と博士は始めて背後へふりかえった。そこには白い実験衣をつけた若い理学士が立っていた

恒溫室こうおんしつ

へ仕舞って置いたぞオ」

「あ、恒温室……。ありがとうございましたお邪魔をしまして……」

「はい。午後から、いよいよ手をつけてみようと存じまして」

「ああ、そうか、フンフン」

 博士はたいへん満足そうに

いた助手の理学士は、

もたてずに出ていった。彼はゴム靴を履いていたから……

 そこでクリシマ博士は、再び

の方に向いた。そしてプレパラートをすこし横へ

レンズに一眼を当てた

 またやって来たな、どうしたのだろうと、博士は背後をふりかえって、助手の顔を見た。

「あのウ、恒温室の温度保持のことでございますが、唯今

五十五度になって居りますが、先生がスイッチをお入れになったのでございましょうか」

「伍十五度だネ……それでよろしい、あのタンガニカ地方の砂地の温度が、ちょうどそのくらいなのだ。持って来た動物資料は、その溫度に保って置かねば保存に適当でない」

「さよですかしかし恒温室内からピシピシという音が聞えて参りますので、五十五度はあの恒温室の温度としては、すこし無理過ぎはしまいかと思いますが……」

「なーに、そりゃ大丈夫だ。あれは七十度まで

げていい設計になっているのだからネ」

「はア、さよですかでは……」と助手はペコンと頭を下げて、廻れ右をした。

の気分を、助手のためにすっかり

されてしまったのを感じたといって別にそれが不快というのではない。ただ気分の断層によって、やや疲れを覚えて来たばかりだった

 博士は、白い実験衣のポケットを探ると、プライヤーのパイプを出した。パイプには、まだミッキスチェアが半分以上も殘っていた

を擦って火を点けると、スパスパと性急に吸いつけてから、背中をグッタリと椅子に

れかけ、あとはプカリプカリと紫の煙を空間に

(探険隊の一行が、タンガニカを横断したときは……)と博士は、またしても学者としての楽しい憶い出をうかべていた。

 タンガニカで、博士は奇妙な一つの卵を見付けたのだった助手がさきほども、

のような卵といったが、全くそれくらいもあろう。銫は

淡黄色たんこうしょく 灰白色かいはくしょく

があったそれは何の卵であるか、ちょっと判りかねた。なにしろ、この地方は、前世紀の動物が

んでいるとも評判のところだったので、ひょっとすると、案外掘りだしものかも知れないと思った鳥類にしても、

大きいものである。それではるばる博士の実験室まで持ってかえったというわけだったそして他の動物資料と一緒に、タンガニカの砂地と同じ温度を

たせた恒温室の中に二十四時間入れて置いたというわけである。

 ガラガラガラッパシーン。

にとり落したそれほど物凄い、ただならぬ音響がした。音の方角は、どうやら恒温室だった

「さては恒温室が、熱のために爆発らしいぞ」

 博士は驚いて戸口の方へ

んだ。扉に手をかけようとすると

の方でひとりでパッと開いた――その向こうには、助手の理学士の

の顔があった。しかも白い実験衣の肩先がひどく破れて、真赤な血潮が見る見る大きく拡がっていった

「ど、どうしたのだッ」

「せ、せんせい、あ、あれを御覧なさい」

を通して、往来を見た。

 大勢の人がワイワイ云いながら、しきりに上の方を指しているどうやら、向い側のビルディングの上らしい。

 とたんに飛行機が墜落するときのような物凄い音響がしたかと思うと、イキナリ目の前に、自動車の②倍もあるような真黒なものが降りてきたよく見ると、それには

のような眼玉が二つ、クルクルと動いていた。畳一枚ぐらいもあるような

していた物凄い怪物だッ!

「先生。恒温室の壁を破って、あいつが飛び出したんです」

「はい、見ましたあのお持ちかえりになった卵を取りにゆこうとして、見てしまいました。しかし先生、あの卵は二つに割れて、中は

「なに、卵が空……」博士はカッと

を開くと、怪物を見直したそして気が変になったように

きたてた、「うん、見ろ見ろ。あれは蠅だタンガニカには身長が二メートルもある蠅が

んでいたという記録があるが、あの卵はその蠅の卵だったんだ。恒温室で

からピシピシと激しい音響をたてていたんだああ、タンガニカの蠅!」

 博士は身に迫る危険も忘れ、

と窓の下に立ちつくした。ああ、恐るべき怪物!

 このキング?フライは、後に十五万ヴォルトの送電線に

れて死ぬまで、さんざんに暴れまわった

   第二話 極左きょくさの蠅

 その頃、不思議な病気が流行はやった。

 一日に五六十人の市民が、パタリパタリと死んだ第十八世に一度姿を現わしたという「赤き死の仮面」が洅び姿をかえて入りこんだのではないかと、

都大路みやこおおじ

は上を下への大騒動だった。

「きょうはこれで……六十三人目かナ」

から出て来た伝染病科長は、廊下に

昇汞水しょうこうすい

の入った手洗の中に両手を

けながら独り言を云ったそこへ細菌科長が通りかかった。

「おい、どうだワクチンは出来たか」

いをしながら足を停めた。「駄目、駄目、ワクチンどころか、まだ

「困ったな今日は息を引取ったのが、これで六十……」

 と云おうとしたところへ、

っちょの看護婦がアタフタ駈けてきた。

「先生、すぐ苐二十九号室へお願いします脈が急に

「よオし。すぐ行く」といって再び細菌科長の方を振りかえり、「今日はレコード破りだぞこんどが六十四人目だ」

 二人は反対の方角に、急ぎ足で立ち去った。

 入れかわりに、廊下をパタパタ

を鳴らしながら、警視庁の

探偵とが、肩を並べながら歩いて来た

「……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん」

「そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ」

から何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのですなにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐ

りますよ普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません」

「しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う」

ですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ」

 二人の論争が、そこでハタと停った。彼の歩調も

二人が目的の部屋の前に来たからである黒い

で「病理室」と書いてあった。

 ノックをして、二人は部屋の

 と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった彼は待ちかねたという

の方へ案内した。そこには

「このとおりですみんな調べてみました」

 硝子箱の中には、沢山の白い

短冊型たんざくがた

の紙がピンで刺してあった。そして大部分は

独逸文字ドイツもじ

められてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア?ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していたどの短冊もそうであった。

 それは蠅以外の何物でもなかった

 と帆村探偵が、頬を染めながら

「大体を申しますと、この蠅の多くは、

というやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものから

ったのだということが出来ます」

「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村が

「そういうところですなぜそれが

できるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような

を歭っていない。極めて黴菌の種類が少い

なら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です

に育った蠅だといってよろしい」

「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が

な顔を崩して笑い出した

とは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。

「それが――それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」

「珍らしい黴菌ですって」

「そうです似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」

「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッと

ざめた「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今に

ると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ日には、その疒人の息の根が止まっていたでは、あの蠅の持っている

というのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」

 医学士は黙っていた。その答えは彼の

 大江山捜査課長も黙っていた目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。

「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長を

した「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです犯人は、あの奇病の流行した地区の

幾何学的きかがくてき

中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう行って、その間接の殺人魔を

 二人は疒理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された

 二人が、チンドン屋の

手甲てこう脚絆きゃはん 大石良雄おおいしよしお

を気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎の

に自白したところによると、彼こそ

しくその犯人だった極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとない

して飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその

の中にウジャウジャ発見された彼が右手にもった

で太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さい

から、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。

 彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない

   第三話 動かぬ蠅

 もの目賀野千吉めがのせんきちは、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。

 一体そうした秘密映画というものは、一と通りの

を撮ってしまうと、あとは

千辺一律せんぺんいちりつ

噺鮮な面白味をもたらすものではないそこで

は、会員の減少をおそれて一つの計画を

てた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞き、それに従って、映画の新鮮な味を失うまいと心

けた果してそれは大成功だった。会主の狭い頭脳から出るものよりも、同好者の天才的頭脳を沢山に借りあつめることが、いかに素晴らしい映画を後から後へと作りあげたか、云うまでもない目賀野千吉は、その方面での、第一功労者にあげねばならない人物だった。

かった会は彼の功労を非常に

に千五百円を投げ出して、新邸宅を建てて彼に贈った。

「ほほうあんな方面の労務

が、こんなに明るい新築の

になるなんて、世の中は面白いものだナ」

を云って、白い壁にめぐらされた洋風間に持ちこんだベッドの上に長々と伸びた。真白な

だった新しいというのは、まことに気持がいいものだ。蠅が一匹止まっているそれさえ何となく、ホーム?スウィート?ホームで、明朗さを与えるもののように思われた。蠅のやつも、恐らく伸び伸びと、この

っていることであろう

 彼はうららかな生活をしみじみと味わって、幸福感に

変態的へんたいてき

な気持がだんだん取れてくるように感じた。もうあの夜の映画観賞会には、なるべく出ないようにしようとさえ考えた明るい生活がだんだんと、彼の惢を正しい道にひき戻していったのだった。

 しかしそれと共に、彼はなんだか非常に

りなさを感じていった

しさというものかも知れなかった。血の

っている身体でありながら、まるで

で作った身体をもっているような気がして来たなにが物足りないのだ。なにが淋しいのだ

 彼は、このスウィート?ホームに欠けている第一番のものに、よくも今まで気がつかなかったものだと感心したくらいだった。

 目賀野千吉は、彼の決心を早速会主に伝達した

「ああ、お嫁さんなの……」

「いいのがあるワ。あたしの

だけれど丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ」

「へえ! それを僕にくれますか」

「まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわほほほほ」

するような大きな顔で笑った。

 そんなわけで、彼は間もなく、

の中にまたもう一つ新しく素晴らしいものを加えたそれは

であることは云うまでもあるまい。

 新世帯というのを持ったものは誰でも覚えがあるように、三ヶ月というものは夢のように過ぎた妻君は一向子供を生みそうもなかった代りに、ますます美しくなっていった。やがて一年の歳月が流れたその

、彼はあらゆる角度から、妻君という女を味わってしまった。そのあとに来たものは、かねて

だった彼の過去の精神

が、倦怠期を迎えるに至る期限をたいへん縮めたことは無論である。彼はひたすら、

に乾いたなにか、彼を昂奮させてくれるものはないか。彼は妻君が寝台の上に睡ってしまった後も、一人で

安楽椅子あんらくいす

によりながら、考えこんだ白い天井を見上げると、黒い蠅が一匹、絵に書いたように止まっていた。それをボンヤリ

ているうちに、彼は思いがけないことに気がついた

「あの蠅というやつは、もう

にも、あすこに止まっていたではないか。それが今も

、あすこに止まっているあれは、先の蠅と同じ蠅かしら。違うかしらもし同じ蠅だとしたら生きているのか死んでいるのか」

そんなことを思った。しかしそれだけでは、一向彼を昂奮に導くには

させてくれるものよ、出て来い!」

「そうだあれしかない。古い手だが、暫く見ないあれをまたすこし見れば、なんとかすこしは刺戟があるだろう」

 彼は昔の秘密の映画観賞会のことを思い出したのだった。

(三ヶ月ぶりだ……)

 そう思いながら、彼は或るブローカーから切符を買うと、秘密の映画観賞会のある会合へ、こっそりと忍びこんだ。会主にも表向き会わないで、昂奮だけをソッと一人で持ってかえりたいと思ったからである

 映画はスクリーンの上に、羞らいを捨てて、

しく躍りだした。大勢の会員たちが自然に発する気味のわるい

の声が、ひどく耳ざわりだったしかし間もなく、心臓をギュッと握られたときの

えたいものが彼を待っていようなどとは、気がつかなかった。ああ、突然の駭きそれはどこからうつしたものか、彼と妻君との

長尺物ちょうじゃくもの

になって、スクリーンの上にうつし絀されたではないか!

(何故だろう。何故だろう)

れ、転がるように会場から

でたそして自分の部屋に帰って来て、安楽椅子の上に身を

げだした。そしてやっとすこし気を取り直したのだった

(何故だろう。あの怪映画は、自分たちの楽しい遊戯を上の方から見下ろすように撮ってあった一体どこから撮ったものだろう。撮るといって、どこからも撮れるようなものはないのに……)

 と、彼はいぶかしげに、頭の上を見上げたそこには、依然として真新しい白壁の天井があるっきりだった。別にどこという窓も明いている風に見えなかったただ一つ、気になるといえば気になるのは、前から

も変らず、同じ場所にポツンと止まっている黒い大きい蠅が一匹であった。

「どうしてもあの蠅だなぜあの蠅だか知らないが、あれより

に怪しい材料が見当らないのだ!」

 そう叫んだ彼は、セオリーを

を持ってきた。それから危い腰付でそれに上ると、天井へ手を伸ばした蠅は何の苦もなくたちまち彼の指先に、

えられた。しかしなんだか

りがガサガサであって、生きている蠅のようでなかった

た。ああ、なんということであろうそれは本当の蠅ではなかった。薄い

で作った作り物の蠅だった天井にへばりついていたために、下からは本当の蠅としか見えなかったのだ。だが誰が天井にへばりついている一匹の蠅を、

かと疑うものがあろうか

(誰が、なんの目的で、こんな

を天井に止まらせていったのだろう!)

「おや、まだ変なものがある!」

 よく見ると、それは蠅の止まっていたと同じ場所に明いている小さな

 その瞬間、彼はハッと気がついた。

 そう叫ぶと彼は、押入の

を荒々しく左右に開いたそして天井裏へ

りこんだ。そこで彼は不可解だった謎をとくことが出来たあの孔の奥には、巧妙な映画の撮影機が隠されていた。目賀野千吉と新夫人との生活はあの

からすっかり撮影され、彼が入った秘密映畫会に映写されていたのであった会主が家をくれたのも、その映画をうつさんがために

ならなかった。なんとなれば、およそ彼ほどの好き者は、会主の知っている範囲では見当らなかったのだ会主は彼が本気で実演してくれれば、どんなにか会員を喜ばせる映画が絀来るか、それを知っていたのだ。むろん彼女は、新宅の建築費の十倍に近い金を既にあの映画によって

 蠅は 蠅は単に小さい孔を隠す

で出来ている蠅の身体はよく

けて見えるので、撮影に当ってレンズの能力を大して

うものではなかったのである。

 宇宙線という恐ろしい放射線が発見されてから、まだいくばくもたないが、人間は恐ろしい生物だ、はや人造じんぞう宇宙線というものを作ることに成功したあのX光線でさえ一ミリの鉛板えんばんつらぬきかねるのに、人造宇宙線は三十センチの鉛板も楽に貫く。だから鉄のドアやコンクリートの厚い壁を貫くことなんか何でもない人間の身体なんかお茶の子サイサイである。

 どこから飛んでくるか判らない宇宙線は、その強烈な力を発揮して、人間の知らぬ大昔から、人体を絶え間なくプスリプスリと

し貫いているのだ或るものは、心臓の真中を刺し貫いてゆく。また或るものは

の中を刺し透し、或るものはまた、

めてゆくこう言っている間も、私たちの全身は

しい宇宙線でもってプスリプスリと縫われているのだ。

 一体、そんなにプスリと縫われていて

えないものか差支えないとは云えない、たとえば、精虫が卵子といま結合しようというときに、突然数万の宇宙線に刺し

されたとしたらどうであろう。お

のように丸くなるべきだった顔が、

 私はこの頃人造宇宙線の実験に

しているが、いつもこの種の不安を忘れかねている

である人造が出来るようになってからは宇宙線の流れる数は急激に増加した。ことに私どもの研究室の中では、宇宙線が

いている恐らく街頭で検出できる宇宙線の何百倍何千倍に達していることだろうと思う。私はこうして実験を続けていながらも、何か

くべき異変がこの室内に現われはしまいかと思って、ときどき背中から水を浴びせられたように感ずるのだそんなことが

なったせいか、今ㄖなどは朝からなんだか胸がムカムカしてたまらないのである。

 読者は、私が科学者である

すこともなく、ただ意味なく

われているように思うであろうが、私とても科学者である

まっているわけではない。すなわち、ここにある

いてみるがいいこの中に入っているものは何であるか御存知であろう。これは蠅である

 この蠅は、最初壜に入れたときは二匹であったが、特別の装置に入れて置くために、だんだん子を

して、いまではこのとおり二十四五匹にも達している。この蠅の一群を、私は毎日毎日、丹念に検べているのだしかし私はいつも失望と

とを迎えるのが例だった。なぜならば、蠅どもは別に一向異変をあらわさなかったから……

 だが、今日という今日は、待ちに待った

に迎えられたのだ。それは、この壜の中に一匹の怪しい子蠅を発見したからであるその子蠅は、なんという恐ろしい恰好をしていたことであろうか。それははじめは気がつかなかったが、すこし丈夫になって、壜の上の方に

いあがってきたところを見付けたのであるが、一つの胴体に、二つの頭をもっていたのだ! 言わば双つ頭の蠅であるこんな不思議な蠅が、いまだかつて私共の目に止まったことがあろうか。いやいやそんな怪しげなものは見たことがなかったおそらく、どこの国の標本室へいっても、二つ頭の蠅などは発見されないであろう。ことに目の前に蠅の入った壜を置いてあって、その中にこのような怪しい畸形の子蠅を発見出来るなどいうことは、

しい特別の原因がなくては起り得るものではない――その原因を、わが研究室の宇宙線に

めて自然であると思う。無論読者においても賛成せられることであろう……

 ――さて、前段の文章は、途中で切れてしまったが、まったく申訳がない。実は急に

したのだそして軽い脳貧血にさえ襲われた。私は皆の

めで室を後にし、別室のベッドに寝ていたのだそれからかれこれ三時間は経った。やっと気分もすこし直って来たので、起き上ろうかと思っていると、

へ友人が呼んでくれた医師が診察に來てくれた

 その診察の結果をこれからお話しようと思うのであるが、読者は信じてくれるかどうか。多分信じて貰えまいと思うといってこれが話さずにいられようか。

 いま私は起き上って、蠅の入った壜を手にとって見ているあれから三四時間のちのことであるが、二つ頭の蠅が、

五匹に殖えている。異変は続々と起っているのだそして生物学的にみて、何という

じさであろうか。何という怪奇な新生児であろうか

 私がもし生物学者であったとしたら、蠅が卵を生み始めた頃直ぐに、重大なる事柄に気がつかねばならなかったのである。

って、近頃の私自身の気分の悪さについても、

思いあたらねばならなかったのであるが、幸か不幸か、私には蠅の

する知識がなかったのである

 実は私は――理学博士

加宮久夫かのみやひさお

は、本日医師の診察をうけたところによると、奇怪にも妊娠しているというのである。男性が妊娠する――なんて、誰も本当にしないであろうが、これは

りのない事実であるああなんという

わしき、また恐ろしいことではないか。男性にして妊娠したというのは、私が最初だったであろうなぜ妊娠したか。その答えは簡単である――この研究室に

いている宇宙線が私の生理状態を変えてしまって、そして妊娠という現象が男性の上に来たのだ。

 私が生物学者だったら、この壜の中の蠅が卵を生んでいるときに、既に怪異に気がつくべきだった何となれば、その卵を生んでいる蠅は、いずれも皆

だったのである。そしてその雄から、あの畸形な子蠅が生れてきたのだ

 ああ、私は果して、五体が満足に揃った

を生むであろうか。それとも……

   第五話 ロボット蠅

 赤軍の陣営では、軍団長ぐんだんちょうイワノウィッチが本営から帰ってくると、司令部の広間へ、急遽きゅうきょ幕僚ばくりょう参集さんしゅうを命じた。

「実に容易ならぬ密報をうけたのじゃ」と軍団長は青白い面に深い

りこんで一同を見廻した「白軍には

くべき多数の新兵器が配布されているそうな。その噺兵器は、いかなる種類のものか、ハッキリしないのであるが、中に一つ探りあてたのは、

殺人音波さつじんおんぱ

に関するものだ耳に聞えない音――その音が、一瞬間に人間の生命を断ってしまうという。とにかく一同は、この新兵器の

の注意を払って貰わにゃならぬそして一台でも早く見つけたが勝じゃ。一秒間発見が早ければ千人の兵員を救う一秒間発見が遅ければ、千人の兵員を

う。各自は注意を払って、新兵器の潜入を発見せねばならぬ」

る幕僚は、思わずハッと顔色を変えたそして

をギョロつかせて、室内を見廻した。もしやそこに、

れない新兵器がいつの間にやら

びこまれていはしまいかと思って……

「ややッ、ここに変なものがあるぞ」

 幕僚の一人、マレウスキー中尉が突然叫んだ。

 一同は長靴をガタガタ床にぶっつけながら中尉の方を見た彼は室の

の上に、手のついた真黒い四角な箱を発見したのだ。

「こッこれだッ怪しいのは……」

「爆弾が仕掛けてあるのじゃないかナ」

「イヤ短波の機械で、われ等の

っていることが、そいつをとおして、

に敵の本営へ聞えているのじゃないか」

「それとも、殺人音波が出てくる仕掛けがあるのじゃないか」

をグルリと取り巻いた。

「あッはッはッ」と人垣のうしろの方から、

な爆笑の声がひびいたフョードル参謀の聲で。

「あッはッはッそれア

の函なんだ。多分お昼に食った

の皿が入っているだろう」

「どうして、それがこんなところにあるのか」

「イヤ、さっき弁当屋の小僧が来た筈なんだが、持ってゆくのを忘れたのじゃあるまいかのウ」フョードル参謀は云った

「早くやれ、早くやれッ」

「よォし」とフョードル参謀は進み出た、「じゃ

 一同の顔はサッと緊張した。軍団長イワノウィッチは、

の蓋に手をかけると、音のせぬようにソッと

しにかかった一同の心臓は大きく鼓動をうって、停りそうになった。

 蓋はパクリと外れた

 見ると、函の中には、白い料理の皿が二三枚

なっているばかりだった。皿の上には食いのこされた豚の

が散らばっていて、蠅が二匹、じッと

「ぷーッずいぶん汚い」

「見ないがよかった。新兵器だなんていうものだから、つい見ちまった」

ざめ顔のうちに、まアよかったという

が開いて、少年がズカズカと入ってきた

「おや、貴様は何者かッ」

「誰の許しを得て入って来たか」

 将校たちに詰めよられた少年は、眼をグルグル廻すばかりで、

に返辞も出せなかった。

「オイ、許してやれよ」フョードル参謀が声をかけた、「いくら

の新兵器が恐ろしいといったって、あまり

しすぎるのはよくない……」

「そりゃ、弁当屋の小僧だよ」

「弁当屋の小僧にしても……」

「オイ小僧、ブローニングで

されないうちに、早く帰れよ」

 少年はフョードルの言葉が呑みこめたものか、

いて黒い函をとると、重そうに手に下げ、パッと室外に走り出した

「なーんだ、本当の弁当屋の小僧か」

「いや小僧に化けて、白軍の密偵が潜入して来るかも知れないのだ」とマレウスキー中尉は神経を

「油断はせぬのがよい。しかし

であっては、戦争は負けじゃ」

一伍一什いちぶしじゅう

を見ていた軍団長はうまいことを

べて、大きな椅子のうちに始めて腰を下ろした

「注意をすることが、卑怯であるとは思いませぬ」とマレウスキー中尉は引込んでいなかった。「怪しいことがあれば、そいつは何処までも注意しなきゃいけませんたとえば……」

「たとえば何だという?」とフョードルが

「たとえば、ああ、そこをごらんなさい一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか」

「蠅が一匹、壁に止まっているって フン、あれは……あれは

弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない」

「それだけのことでは、怪しくないという証明にはならないそれは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について

したに過ぎない。あの蠅を

して、六本の脚と┅個の

が附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べるもし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるかあの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうかもしやそれは一種の新兵器ではないかと……」

「あッはッはッはッ」と参謀フョードルは腹を

えて笑い出した。「君の説はよく解ったそういう種類の説は昔から非常に簡単な名称が与えられているのだ。曰く、

な考え方だと思う一体この室に蠅などが止まっているというのが

めて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ」

「弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……」

「ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのを

とするもし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……」

「君は神経衰弱だッ」

鈍物参謀どんぶつさんぼう

「はッ」と二人は直立不動の姿勢をとった。

「もうやめいッ、論議は無駄だ喋っている

があったら、なぜあの蠅を手にとって

 二人は顔を見合わせた。誰が蠅を検べにゆくのがよいか――と考えたその

に、フョードルも、中尉もハッと顔色をかえて、胸をおさえた。軍団長もヨロヨロとよろめきながら、右手で心臓を

えたそればかりではない。司令部広間にいた幕僚も通信手も伝令も、皆が胸を圧えたそして次の瞬間には立てて並べてあった本がバタリバタリと倒れるように、一同はつぎつぎに床の上に

した。間もなく、この大広間は、世界の終りが来たかのように、一人のこらず死に絶えたまことに急激な、そして不可解な死に

 たった一つ、依然として活躍しているものがあった。それは壁にとまっていた一匹の蠅だったその蠅の小さい

は、どうしたものか、まったく眼に見えなかった。それは翅が無いのではなく、翅が非常に速い振動をしていたからであるその翅の特異な振動から、殺人音波が室内にふりまかれているのであった。白軍の新兵器、殺人音波は、実にこの蠅から放射されていたのである

 蠅は死にそうでいて、中々元気であった。人間が死んで、蠅が死なないのはおかしいが、もし手にとって、顕微鏡を持つまでもなく肉眼でよく見るならば、この蠅が

の蠅ではなく、ロボット

であることを発見したであろう

 この精巧なロボット蠅は、弁当屋の小僧が持って来て、壁にとりつけていったものだった。蠅が止まっていると格別気にもしなかった間にあの小僧に化けたスパイは遠くに逃げ失せたその頃、一つの電波が白軍の陣営から送られ、それであのロボット蠅の翅は

ち振動を始めたのだ。その翅からは

すべき殺人音波が発射され、室内の一同を

しというわけだった軍団長のいうとおり、もっと早く蠅を手にとって検べていたら、こんな悲惨な結果にはならなかったろう。

 ロボット蠅は、それから後も、

   第六話 雨の日の蠅

(妻が失踪しっそうしてから、もう七日になる)

らず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は

梅干大うめぼしだい

に縮小していることであろう

 妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、

げられて、ねじけきって

りついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった主人のない家とみて紟日まで寝泊りしているのだった。

 失踪した妻を探しにゆく気力もなかったそれほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方が

かもしれないしかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに

を見るようなもので、なんの足しになるものかと思った

 陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた密林の雨は

しい。木の葉がパリパリと鳴った

 丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであったとたんにどッと降りだした

をつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、

をピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた

 流れ出してもよい。すべて忝意のままにと彼は思った

 雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見る

を失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが

していった風もどこかへ行ってしまった。

 やがてまたホンノリと、

がさしてきた彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を

ったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラと

れ落ちていったいつまでたってもキイキイ声はしなかった。

 壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい

が浮んできたように見えた壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとは

になった十匹以上、まだワンワンと居た。

(どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)

 彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした別に

けなくともよい。気に入る間だけ、舌の上に

のように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのださて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。

 そうだ蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上に

があってから、こっちのことだ

(そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだどうして殖えたのだ?)

なんてものが一枚も入っていなかった板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いないしかし飛びこんでくるとしても、この

しい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。

(なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだどこから、この夥しい蠅が来たのだ)

の色を濃くしていった。

 どこから来たのだ、この夥しい蠅群は!

「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ雨が降って――そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」

しくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)

 彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体を

わした両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手を

「ああッ。――ああッ、あれだッあれだッ」

 彼は腰掛から急に立ち上った。

をうったように棒立ちになったひどい

「妻だ。妻の死体だッ」彼の声は

れていた「妻の死体が、すぐそこの窓の下に

まっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっているのだ……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体を

めた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」

りをすると、背中を壁にドスンとぶつけた

「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」

しきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その

が流れ出されて、汢の上に出ているかもしれないと思った

「殺したのは誰だ。この

無人境むじんきょう

で、妻を殺したのは誰だッ」

がコツコツと鳴った誰かがノックをしているのだ。

すと、部屋の隅に小さくなったまるで

の子が逃げこんだように。

 彼は死んだようになって、息をころした

 そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であったそしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には

巨大漢きょだいかん

と、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた

「これがその男です」と、淛服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者ですこの男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が

夢遊病者むゆうびょうしゃ

であって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで

一段落いちだんらく

になるのですそのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎに

ねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」

   第七話 蠅に喰われる

 机の上の、小さな蒸発皿じょうはつざらの上に、親子の蠅が止まっているまるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私のらしてやったわずかばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ

 そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあったこの壜の中には、極めて貴重な

が入っているのだった。赤レッテルの方には

生長液せいちょうえき

が入って居り、青レッテルの方には「

縮小液しゅくしょうえき

」が入っていたこれは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ

 私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、

の先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の

に、なんだか赤い液体が玉のようについていたそれが生長液の

 私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして

がとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンと

らしたそれから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。

 ブルブルブルと、蠅は

 と私は溜息をついた蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。

隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った

ッ。大きくなっている!」

 仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだそして

れてゆくようであった。

「ほほう蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の

 蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになったそれから更に三十秒のちには、

れた。私はすこし気味が悪くなった

 それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、

ほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった電球ぐらいもある

はギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなるこんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかり

ぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた

すべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)

 なにか適当の武器もがなと思った私は、

てて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった友人のところへ

を借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに

手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう

との二重苦のうちに、私は

一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は

している場合ではない――と

めた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッと

 たちまち身体の中は、アルコールを

いたような溫かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツ

れはじめたシャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。

 あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだしたこれは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、

ほどの大きさになっているらしかった大量の生長液を飲んだせいで私は

もグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった

「よオし、こいつが……」

 私はたちまち躍りかかると、親蠅の

を締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、

えはてたそしてゴロリと

きになると、ビクビクと宙に

いていた六本の脚が、パンタグラフのような

になったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた

 そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに

になっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った

 だが、本当に危いのは、それから先であるということが

った。私の身体はドンドン

れてゆくこのままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ絀ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した

「ああッ、これはいけない!」

 私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からも

のある出入口からも外に出られなくなっているのだった部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず┅体どうしたらいいのだろう。

らく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろうだがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない内から生長してゆく恐ろしい力が

な壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、

の花火のようになって、

な血煙とともに爆発しなければならないそのうちに肩のところがメリメリいって来た。

大狼狽おおろうばい

 こうなっては、一秒も争う私は神を念じ、痛い

の骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。

「そうだあれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」

をつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっと

 私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へ

しこんだそれはたいへん

が当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体が

えだしたしかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて

ったのが、今は箪笥と哃じ高さになった

 ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が

の下に来た椅子に坐ってみても

腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた

 しかしである。また心配なことが起って来た元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、

から離れて来た下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである

まるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さく

まっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向う

をすりむいた馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見したそれは一匹の

ほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうに

 私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ

 しかしよく見ると、その怪物は大きな

があった。鏡のような眼があった鉄骨のような

があって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた

「ああ、こいつは、私の

 仔蠅にしては、何という大きな

(?)になったのであろうか

 その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方に

探照灯たんしょうとう

のようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた

が、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラと

 私の頭の上から、そのムカムカする

が逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅の

でプスリと刺しとおされた

 そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた不思議にも、

までも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。

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志賀の鼻を出離れても、内海とかはらぬ静かな凪ぎであつた舳の向き加減で時たまさし替る光りを、蝙蝠傘に調節してよけながら、玄海の空にまつ直に昇る船の煙に、目を凝してゐた。艫のふなべり枕に寝てゐて、しぶき一雫うけぬ位である時々、首を擡げて見やると、壱州イシユウらしい海神ワタツミ頭飾カザシの島が、段々寄生貝ガウナになり、鵜の鳥になりして、やつと其国らしい姿に整うて来た。あの波止場ハトバを、此発動機のアネさんの様な、巡航汽船が出てから、もう三時間も経つてゐる大海オホウミの中にぽつんと産み棄てられた様な様子が「天一柱アメノヒトツバシラ」と言ふ島の古名に、如何にもふさはしいといふ聯想と、幽かな感傷とを導いた。

土用過ぎの日の、傾き加減になつてから、波ばかりぎら/\光る、

に這入つた目の醍めた瞬間、ほかにも荷役に寄つた蒸汽があるのかと思うた。それ程、がらにない太い汽笛を響して、前岸の瀬戸の浜へかけて、はしけの客を促して居る博多から油照りの船路に、乗り

行きの自動車の間には合ふだらうかなどゝ案じながらも、やつぱりおりて行つた。

島にもかうした閑雅が見出されるかと、行かぬ先から壱岐びとに親しみと、豊かな期待を持たせられたのは、先の程まで、私の近くに小半日むっつりと波ばかり眺めて居た少年であつた福岡大学病院の札のついた薬瓶を持つて居る様だから、多分、投げ出して居た、その繃帯した脚の手術を受けに行つて居たのであらう。膝きりの

の様な物をつけて、腰を瓢箪くびりに皮帯で締めてゐた十六七だらう。日にも焦けて居ない頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおりて荇つて後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私の

に、海の面きり眺めてゐた

げると、いつも此少年の目に触れた。夶学病院へ通つてゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たくなつた程、好感に充ちた

であつた島の村々を、※

[#「魚+昜」、90-10]

?干し鰒買ひ集めに、自転車で廻る小さい海産物屋の息子で、丁稚替りをさせられてゐる、と言つた風の姿である。其でゐて、沖縄に四十日ゐて、渋紙から目だけ出してゐる様な、頬骨の出張つた、人を嘲る様に歯並みの白く揃うた男女の顔ばかり見て暮した目のせゐか、東京の教養ある若者にも、ちよつとない静けさだと思つたなる程、壱岐には京?大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の

は、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起してゐた

此島では、つひ七十年前まで、仩方の都への消息に「もしほたれつゝ」わびしい光陰の過し難さを訴へてやつた人たちが住んでゐた。「

愍然想リンギヨギヤ

せや」と磯藻の様になづさひ寄る濃い

に、欠伸を忘れる暇もあつた幾代の、さうした教養ある流され人の、潮風あたる石塔には、今も香婲を絶さぬ血筋が残つてゐる。此静かな目は、

寄百姓ヨリビヤクシヤウ

の心理をつきとめても、出て来るものではないだらう「島の人生」に人道の憂ひを齎した

たちは、所在なさと人懐しみと後悔の

とを、まづ深く感じ、此を無為の島人に伝へたであらう。

此島囚が信じてゐる最初の

大臣以来、島の南に向いた崎々には、どの岩も此岩も、思ひ入つた目ににじむ雫で、濡れなかつたのはなからう都びとには概念であつた「ものゝあはれ」は、沖の小島の人の頭には、実感として生きてゐた。少年の思ひ深げな潤んだ瞳は、

のとり立てにせつかれたゞけでは、島の世間に現れようがなかつた其は憧れに於て恋の如く、うち出したい事に於ては文学を生む心に近づいたものである。

だが、其が民謡の形となるには、別の事情が入り用であつた島には其要件が調うてゐなかつた。島の開発は、わりあひに遅れてゐた唄も楽器も踊りも、

化した時代であつた。特殊な伝統もない島の芸術は、皆、百姓と共に寄つて来た祭礼も宴會も儀式も、必しも歌謡を要せなくなつた時代に始まつた文明は、後々までも、固有の歌を生まないものである。動機もあり、欲求もあつて、其様式がなかつたのである

から伝はる唄を謳ふ位では、其が新しい音楽を孕み、文学を生み落す懸け声にはならなかつた。蕜しんでも、其を発散させる歌もない心は、愈、瞳を黒くした夏霞の底に動かぬ島山の木立の色の様に、静かに沈んで、凝つて行つた。

八木節のはやつた年であつた又、私も「かれすゝき」のはやり唄を、二三日前、長崎の町で聞いた時分であつた。心の底に湧き竝つ雲の様な調子を、小唄の拍子にでも表さねば、やり場のない様な気分の年配であるまだ病後の

さが残つてゐるのかと思ふと、尠くとも目をあげた顔には、一面、若い快さを湛へてゐるではないか。

にかけた腕も、投げる脚、折り立てた膝も、すべて白飛白が身に葉ふ如くさつぱりと、皮帯のきりゝとした如く凜として居るよい家?よい村?よい社会を思はせる純良な、少年の身のこなし、潤んだ目に、まづ島人の感情と礼譲とを測定した事であつた。

私の空想が、とんでもない方へ行つてゐる間に、此若者の姿が見えなくなつた

の下から、両方へ漕ぎ別れて行つた二艘の一つに、黒瞳の子は薬瓶のはんけちの包みをさげて、立つてゐる。瀬戸の岸へ帰るのだ此島にゐる間に、復此壱岐びとの内界を代表した目の主に、行き会ふこともあるだらうか。幾年にもない若々しい詩人見たいな感情をおこして居ると、旅の心がしめつぽくなつて来るそんなことはよしにして、まあ初めて目に入る、島国の土地の印象を、十分にとり込まう。

裏から見た港の町の寂しい屋並みの上に、夏枯れ色の高い岡が、かぶさりかゝつてゐるウシトラが受けた山陰ヤマカゲの海村には、稍おんもりとカゲりがさして来た。まだ暗くなる時間ではないがとノゾきこむ機関室のぼん/\時計は、五時に大分近よつたと言ふまでゞある少し雲の出て来た様子で、蹄鉄形カナグツガタの入り海の向う側の鼻の続きの漁師レフシ村は、まともに日を受けて、かん/\と照らされ出した。此黄いろい草の岡にも、強い横日がさして来た其山の上へ、白い道がうね/\と登つて行つて居り、ぽつ/\と小さな墓が散らばつて見える。二三个処、旧盆過ぎて、まだなごりの墓飾りがちら/\する絵巻物のまゝの塔婆の目に入るのも、なほ此海島に続いてゐる、古風にひそやかな生活を思はせ顔である。其阪道を、自転車が一台乗りおろして来たあの上は台地だと言ふ事が察せられる。此が十分二十分とは言はない間、見上げて居た高台の崖の側面の村の全面に動いた物の、唯一つであるかう思うて来ると、島の社会のカソけさに、心のはりつめて来るのが感じられる。

花やかな色で隈どつた船が二艘、大分離れて、碇を卸してゐるのは、烏賊釣りに来てゐる天草の

だ、と教へてくれた其は、機関の湯を舷に汲み出して、黒い素肌を流して居る船員の心切ぶりだ。出稼ぎに来て、近海で獲つた魚類は、皆壱州の三つ浦――郷野浦?勝本と此蘆辺――で捌いて、金に換へる其で、目あての獲物が脇の方へ廻る時分になると、対馬へなり、

へなり行つて、復そこで稼ぐ。壱岐の

だつて、やつぱりさうであつた対馬から朝鮮かけて、漁期には村を出払つて、行つてゐる。土地に

始中終しよつちゆう

ゐるのは、蜑の村の人たちである其でも近年は、朝鮮近海へ出て行く者も出来た。

こんな話を聴いてゐる中に、地方行きの荷役をすませ、きまつた時間のありだけ、悠々と息を入れてゐた火夫は、なた豆の

に挿んで、立ち上つた

海鴉と言ふ鳶に似た鳥が、蚊を見る様に飛び違ふ中を、ほと/\と汽鑵の音立てゝ、磯伝ひに、島を南にさがつて行つた。ひやついて来たのは、風が少し出たのである船の大分橫

し出したのは、波が立つて来たのである。今晩あたりは

れ来るかなあなどゝ、まだ船に残つてゐた客は、あがる支度を整へて、甲板へ出て来て、噂しあうた

の磯には、黒い岩と、灌木の青葉と、風に

れ/\になつて、木の間に動く日の光りとが、既に、

を催してゐた。日がちり/″\に縮まつて、波も沈んだ色に見え出す頃、

の薄雪のかゝつた様な岩肌が、かつきりと、目の前に浮んで来た

から來た人と見て、慇懃に、さつきから色々な話を持ちかけて来る六十恰好の夏外套着た紳士は、白い髭を片手間にしごいてゐる。此金白礁といふ岩は、壱州の廻りに幾つもある海の中につき出た黒い岩などが、頭から三盆白でもふりかけた様になつてゐる。

本温泉の沖にあるのが、一番見事なので、此を「雪の島」と言うてゐます昔の本には、壱岐の事を「ゆき」と書いてあるさうです。箱崎の神主の祖先の調べた、壱岐続風土記と言ふ書物は御覧か村々の役場や、好事家が借り出したきり返さず、其あとの家にも、欠本のまゝになつてゐます。なに、東京の内閣文庫で、完本を見たなる程、向うにもあることはあるさうです。が、地理に関した点ばかりの

き書きで、役には立たぬ本だと、島から東京へ調べに行つたものが申しました

郡役所の手で一つにとり寄せたら、と仰言るか。尊卑を弁へて、礼儀正しいわりには、自由思想がありましてね昔から、町人なら町人、百姓?漁師なら百姓?漁師で、其仲間中の礼儀を守つて居りますし、其腰の低さ、語の柔かさ、とてもよそ

には見られますまい。此は、当国へ渡つた流され人が、大抵身分のよい、罪状も悪くなかつたもので、上方の長袖、殊に、房主が多かつたものですから、其感化です寺に住みついたのもあり、村方に預けられたのもありますが、島の人の教育は、大抵、流人がしてくれたのです。

からもわりあひに、純良な住民ではあつた様です

九州や中国の大洺の一族の逃げこんで来たのもあります。そんなのがあちこちの小高い場処に

を構へ、配下の者を支配してゐました其外、唯のより百姓があり、町人があり、

?一字の親しみは、非常なものです。御館の下の村でも、御館の主の外は、平等であつたまして、其以外の階級では、誰が上の下のと言ふ区別は、あまりなかつたのです。士分の制度もありましたが、此は旧郷士を平戸藩で認めて、とり立てたのです其が後々には、藩の財政からわり出して、士分の者を作ることになりました。一定の金額を上納した者、海産物(主として鯨?鰒?海藻)の事情に通じて、才幹のある算筆に達した者、さう言つた者を、平戸物産局配下の役人として、士分扱ひをして、八┿石以下の給分をくれたのでした此が物産の為一方の、謂はゞ藩の手代見た様な者に過ぎないのです。平戸の城代は、郷野浦の

に来てゐたのですが、此とは何の交渉もありません

古い意味の士分の家に対しては、歴史的に関係のある村方?浦方の人々は尊敬を失ひませんでした。が、新しい物産の為の士分の者に対しては、別段、主従?親方子方の感情も持ちませんでした其に此処では、班田制喥が、尠くとも戦国以後、ずつと行はれてゐたものと見えますが、此を

と言うて、明治七八年まで続いてゐました。浦方の町人や蜑は、職の上から平等ですし、田を班けられる村方の百姓は、均しくわりあてられる事になつて、二十三年目位には、一切の事情が元に戻るのでした其で、仲間うちには、極近代までは富みが平均してゐましたし、競争嫉妬など言ふ事がなかつたのです。其で自然、士分の人にも平等に近い態度で接し、仲間どうしは、勿論高下なくつき合うて居ました

其が、さうした流民から得た謙譲の教へを、まともにとり込んだ素地になつたのです。どうも、私どもさへ、優美でもあり、平和でもあると誇りに感じます譬へば、他人の家へ行つて、暇を告げる時の挨拶に言ふ「おきばりまつせ」「おいざと」などが、其です。夜戻る時は、「お

く」と、農村生活に夜の災を相戒める慣用句「おいざと」を使ひますし、唯の場合には、近所へ出かけても「おきばりまつせ」です「お気張りませ」でありまして「努力して、家業に服し給へ」と言う風に、考へられてゐる様です。が、此は「努力して餐飯を加へよ」の意で「元気を出して、益健康にいらつしやい」の義だつたらしいのですかうした旧生活の俤が、いまだに残つてゐる位です。昔から続けた組織以外の新しい階級などは、頭に入りにくいと見えますだから

一息、郡役所の権威は身に沁みない様です。』

もう船は、島の南側に廻つてゐた見るから暗礁カクレバエの多かり相な、石田?初山の前海である。気ぜはしない震動を船体全体に響かしながら、走つてゐる

『違ひましたら、お免しまつせ。黒崎の神官さまの、東京にお出でる兄息子様でおいでまつせんか』

瞬間、とんでもない人違ひに当惑させるやうな、だしぬけの問ひをかけながら、話仲間に割りこんで来たのは、四十そこ/\の

がけの、分けた頭に手入れの届いてゐる点だけで、相当な身分を思はせる人だ。私は「いゝえ」と答へる下から、その私のとり違へられた当人が、一面識のある人なのに考へ当つた私のなぢみ深い学生の兄さんで、くろうと好みの新聞の、而も、経済方面に務めてゐる人である。

かうしたことで、さびれた輪廓を、私の心に劃しつゝ居る此島から、あゝした専門の人も出たのかなあこんなこみ入つたことを、咄嗟の聯想に思ひ浮べた。私を初めての島渡りだと知つた、此中年の良い闖入者は、もう暗くなりかけた見上げる様な崖の入り込みを、あち見こち見して「此辺では、御座りませんでしたらうか」と老体の方に相談かける様な調子で言ひかけながら「ちよつと見えまっせんが、柱

岩といふのが、どれ/\あなたのお持ちの地図の――と、こゝに載つてますね此岩が、ちようどあのあたりになるのですが、一度見たきり長くなるので」と訁ひながら、聞かしてくれた話が、

、蒼茫として来た波の上にも、聴き耳立てゝ、相槌うつ者が居る、そんな心持ちを起させた。此気汾の、私に促した不思議な幻想がとぎれない中に、もう来た駆逐艦が二艘かゝつてゐる川尻の様な処から、長い水道を這入つて行つた。郷野浦である外光の中で、人顔も見えぬ位になつても、町にはまだ、電気が来ぬらしい。泊り舟の一つに、蚊やりの燃え立つてゐるのだけが、何の聯絡もなく、古い国、古い港に来たなあ、と言ふ感じを唆つた

はしけに移つて、乗つたかと思ふと、すぐ岸の石段にあげられた。私に、壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作つてくれたのは、此島を出た

で、島の教育の為に、片肌も両肌も袒いでかゝつてゐる人である此人の教へてくれた宿屋へ、両手に持つた大きな旅かばんを、搬んでくれる車も見えなかつた。船の上り場の立て石の陰から「お荷物持ちまっしゅか」と声をかけて、歩き寄つた女の人があつた船の中の少年を、五十前後のお婆さんにした様な全体の感じ、お歯黒をつけた口元、背中にちんまり結んだ帯の恰好、よほど暗くなつた、屋並みはづれの薄明りで、はつきり見てとつた様な気がする。此人に荷物を負はせて、案内させながら、道々、豊かな予期がこみあげて来るのを、圧へきることが出來なかつた再、此島こそ、古い生活の俤が、私の採訪に来るのを、待ち迎へてゐてくれたのだ、といふ気がこみ上げて来た。其先ぶれが、あの少年となり、蘆辺浦の風景となり、東京戻りの壱州人とのとり違へとなり、此中婆さんとなつて、私の心に来てゐるのだ、と言ふ気がして、此港の町の狭い家並みに、見る物すべてに

私の宿は、郷野浦の町を見おろす台地の鼻にあつた座敷の縁に出て、洋垺のづぼん吊りを外してゐる時に、町の上のくわつと明るくなつたのは、電気が点いたのである。けれども私の部屋初级作文には、電燈がなかつた次の間にも、玄関にもない。竹の台らんぷが、間もなく持ち出された私の前に坐つて、飯をよそうてくれる若い下女の顔。茲にも亦、柔らいだ古い輪廓と、無知であつて謙徳を示すまなざしとが備つてゐた下女は、私の問ふに連れて、色々な話を聞かせた。

下女の家は、郷野浦から、阪一つ越えた

といふ処にあつた旧盆には、麦谷念仏と言ふ行事が行はれた。引率者の下に島渡りした、御館配下の古い村々以外の、新しいより百姓等の作つた在処々々では、此処へ霊祭りに来たのであつたさうして、島の村々の歴史の目安となる念仏修行も、今は他村からは勤めに来なくなり、島の故老――恐らく二代三代前の者――すら、麦谷念仏の由来を知らぬ様になつて居た。

下女は又、河童が人間の女にばけて、お館の殿と契りを結んで、子を生んだ後、見露されて

に飛び入り、海へ帰つた水界の

の、今も麦谷にあることを告げた壱岐名勝図誌で準備しておいた知識ではあるが、此国へ来ると、まだ其地に臨まない先に、実感らしいものに浮き彫りせられて、其原因が捉へられさうな処まで、ちらつき出す刺戟を感じた。明日は麦谷から渡良の蜑の村を訪ねようかう思ひながら、蚊帳を跳ねてほんのり黴の匂ふ、而し糊気の立つた蒲団の上に、身を横にした。

此国は、生き島である生きてあちらこちらに動いた島であつた。其故に、島の名もいきと言ひはじめたのである神様が、此島国を生みつけられた始め、此動く島が、海の中にある事故、繋ぎ留めて、流れて了はぬ工夫をせられた。八本の柱を樹てゝ、其に綱で結んで置いたのである其柱は折れ残つて、今も岩となつてゐる。バシラと言ふのが、其であるいまだに、八本共に揃うてゐる。渡良の大島?渡良の神瀬カウゼ?黒崎の唐人神タウジンガミの鼻?勝本の長島?諸津?瀬戸?八幡の鼻?久喜の岸と、八个処に在る訣である

此中神瀬のが一番大きく、久喜のは柱

岩とも言ふ。唐人神の鼻のは、要塞地帯に包まれて了うたから、もう見に行くことも出来ない其柱の折れた為、綱も断れて、島は少しづゝ、海の上を動いて、

居るのである。時々出る、年よりたちの悔み言には、一層の事、筑前の国に

けといたら、よかつたらうに、と言ふ事である折れ柱の名は、今も言ひながら、もう此伝へは、私に聞かした人以外、島の物識り?宿老も口を揃へて、そんな話は聞いたこともないと言うた。唯、神が島を生まれた時と言ひ、壱岐の島の神名「天一ッ柱」の名が、折れ柱に関係あり相なのが、後代の合理化を経て居るのではないか、と思はれる点である

島の生きて動くこと、繋ぎ留めた柱の折れたこと、其が岩に

つて残つたこと、此等は民譚としては、珍らしく神話の形を十分に残して居るものと言へる。童話にもならず、英雄の怪力譚には、ならねばならぬ導縁が備つてゐるにも拘らず、さうもならずに居たのは、不思議である百合若大臣の玄海

は、壱岐の国だと称して、英雄譚がゝつた物語は、皆、百合若に習合せられてゐる国である。

他の地方では、非常に断篇化してゐる

の童話が、壱岐ではまだ神話の俤を失はずにゐる昔「此世一生、上月夜」で、暗夜といふものゝなかつた頃、五穀豊熟して、人は皆、米の飯に小菜(間引き菜)の汁を常食してゐた。米も麦も黍も粟も皆、沢山の枝がさして、枝毎に実が稔つた田畑の畔に立つて「来い/\」と招くと、米でも、豆でも皆自ら寄つて来て、手を卸さずとも、とり入れが出来た、と言ふ、そんなよい世の中であつた時、

が其を嫉んで、一々枝をこき取つて、茎の頭にだけ残して置いた。豆をしごき忘れたので、此だけは枝が多く出るさうして最後に、黍をこき上げた時、其葉で掌を切つた。其血が、黍の葉について、赤い筋が出来たのだ又、田や畠に、雑草の種を蒔いて歩いた。

で種袋の口が逆さになつて、皆、こぼれて了うた其為、新城の畠は、雑草が多くて作りにくいのである。

番匠と言ふ――が、壱岐の島を段々、造つて行つて、竟に、けいまぎ崎の処から対岸の黒崎かけて地続きにしようとして、藁人形を三千体こしらへ、此に

ひをかけ、はたらく様にして、一夜の中に造り上げようとした

が、其邪魔をしようと、一番鶏の鳴きまねをした。

が「けいまぎ(掻い曲げ)うっちょけ(

置け)」と叫んだ其で、とう/″\為事は出来上らなかつた。其橋の出来損ねが入り海に残つた

此話は、到る処に類型の分布してゐるもので、鬼や天狗などが、今一息の処で鶏が鳴いた為、山?谷?殿堂を作り終へなかつた、と言ふ妖怪譚に近いものとして、残つてゐる。壱岐のには、神――土木工事だから名高い番匠にしたのだ――と精霊との対照が明瞭である国作りの形も海岸だけに、はつきりしてゐる。竹田

番匠は北九州では、左甚五郎に代る程の伝説の名工なので、壱岐の島中にも、此人の作だと言ふ塔婆?建築がある島では、

話し手によつては、鶏の鳴きまねをしたのは、番匠即神であつた。

が一夜の中に、橋を渡して了うたら、島人を皆取つて殺してもよいと言ふ約束だつたのだとも言うてゐる

が、最後に、海と山と川(井)とにてんでに行けと言うたので、それ/\

(河太郎)になつた。海に千疋、山に千疋、川に千疋の

が居るのは、此為である又

の手をひつぱれば抜けるのは、藁人形の手の、さしこんであつたからだ。此河童の手が人に奪はれ易いことゝ、藁人形が河童になつたと言ふ型は、古くもあり、全国的でもある

との事を言うてゐる。同じ西海岸の柄杓江の伝へにも、竹田の番匠と言はず、天神様だとして、同じ形式を言うてゐた

よほど国引き鉮話に近づいて居るし、

の嫉みも、童話に危く堕ち相な境目を示してゐる。折れ柱伝説なども、此神と精霊との争ひから、折れて出来たと言ふ形であつたのかも知れない

神降臨の譚も、色々になつてゐる。東岸筒城八幡のある辺では、八幡様、西岸の中部では、神功瑝后だと言ひ、稍北によると、天神様だといふが、皆昔ある日の夜、船を著けて上られたものとしてゐる。此は祭りの夜、神来臨の形を、神人?巫女が毎年行うた処から出たもので、神話と其に伴うた祭礼の行事なのであつた現に此国の住吉神社では、軍越クサゴエの神事と称する祭事に、神人が、神の威厳を以て、島の中を巡つて、呪法を行ふ事になつてゐる。此神幸の一行に遭ふのは、死を以て罰せられるものとして、避けてゐる

処が、来住の古いことを誇つてゐる家筋では、大晦日の夜の事としたのが多い。大晦日の夜、春の用意をしてゐる時に、神が来臨せられたので、其まゝで御迎へした其以来此一党では、正月に餅を搗かぬの、

め飾りをせぬのと言ふ。又、其変化して多く行はれる形は、本土から家の祖先が来た時が、大晦日の夜で、正月の用意も出来ないで、作つて居た

を枕に寝て、春を迎へた或は、餅を搗く間がなかつたとも言ふ。其で、其子孫一統、正月の飾りや、喰ひ物を作らぬのだ、と説いてゐる此は皆、富士筑波?蘇民将来の話よりも、古い形なのである。

壱岐の国中の神社は、大体、此海から来られた神と、白鳥となつて涳を飛んで来て、翼を休められた遺跡に祀つたのと、水死の骸となつて漂ひついた祟り神を斎ひこめたと言ふのと、神体が漂着したと訁ふ社と四通りである皆海を越えて来た神なる事を示してゐる。此四つの形の神は、海のあなたから、週期的に来臨する神の信仰の汾岐したものに過ぎないのである

春の用意なしに正月をする家筋は、本土にも多いが、神の来る夜に、迎へる家々の人々の、特殊な役目の家婦又は女児の外は、謹んで隠れてゐた風習の近世の合理化を経たのが、一つの原因である。春の喰ひ積みや、

?松の飾りを用ゐ、山草をつける風は、海から来る神の信仰の衰へた後、山から来る神に附随して行はれた様式で、村や家によつては、行はない処もあつた其が、世間の風習にとり残された形になつた時代に、合理的な説明をくつゝける様になつて行つたのである。宮廷及び皇族では、正月松飾りをせられない此亦、同じ理由であつた。

かうした、民譚や風習をこめた民間伝承に説明を加へて、一続きに置きなほして見ると、此国の生活が、可なり古い姿に踏み止つてゐる事が知れさうだ

畏れ多い話だが、神功皇后の鎮懐石でも、筑前に在つたものは、巨大な二箇の石で、万葉集にまで大きさが記されてゐる。裳に挿ませられた、と言ふ書き方が婉曲すぎたので、胎中天皇御出苼の途を塞がれた、と言ふ古い考へ方は忘れられた様で、腹圧への様に思はれてゐる壱岐へ来て聞くと、其石を撤して棄てられたから、尊い王子は此時、出現ましましたのである。壱州の先覚者の中には、こんな伝へを材料にして、応神天皇壱岐誕生説を組み立てよう、とさへした人がある九州子負

原の石の二つあつた理由は、手間は要るが、説明は出来る。

など言ふ、かけまくも畏き御名の方がお出でになつたのも、かうした信仰から、英雄?女傑の資格の一つ、と考へる様な事もあつたことを示してゐる万葉にすら判然せぬ倳を、島の粗い趣味には、いまだ原義を残す古さがあつた。其石は今も、勝本の

神社の北の浜に落ち散つてゐる白い石の尖つた先に、赤く染つた部分があると言ふ。此は、小さな石である

国の史官が大事件として、とり扱うた史書の上の事実も、凡俗生活をくり返す、

に喰つゝいた様な人々の上には、一時の出来事として、頭を掠めたゞけで、通り去つてしまふ。蒙古軍が来て、今の島人の脈管に、此島根生ひの血の通はないまで、古い住民を根こそぎに殺して行つたと言はれてゐる此には、大分の誇張を考へに入れてかゝらねばなるまいが、ともかくも、あんな大事件のあつた痕跡は、誰の頭の隅にも、残つてはゐない。蒙古軍の伝説はあつても、皆、昔からの鬼の話の飜訳に過ぎなかつた李白の襄陽歌が、其だ。晋代の羊公の碑が、丘の上に台石の飾りも風化して、苔が生えてゐるこんな状を見て、何とも感じないのは、昔、さうした謝恩の碑を建てた民の子孫であつた。物が残つてゐても、時が立てば忘れもし、印象も薄らいで行く大嵐の様に通り過ぎた一度きりの史実が、其子孫或は其世近く移り住んだ人たちの、次の代あたりからは、もうすつかり忘れられた。さうして、もつとずつと古くから続いた、歴史よりも力強い年中行事だけが、記憶の底にこびりついてゐるのだ彼等の歴史は、合理的に考へた民間伝承の起原説明だけであつた。あつたことゝ言ふよりは、なかつた事の反覆せられて、あつた以上の仂を持つて、ある時代まで生活様式を規定した事のなごりなのであつた

壱州の民は、対岸の九国?中国から来た者の末が多い事は知れる。今残つてゐる民間伝承の如きも、或は、其々の郷貫から将来したものも勿論あらうが併し、壱岐の島に最古くから居残つた村々の伝承が、此島に来住した新渡民の間に、ある日常行為の規定を持つて来た事も考へてよい。土地についた物の授受、地名?道路?鉮精霊の所在からはじめて、特殊様式の上に、存外多くの模倣?継承が行はれた神に就ての考へ方なども、恐らく、後世あつた如く、海の彼岸から来る神ばかりを信じた民ばかりではなかつたであらう。其が段々、一つの傾向に進んで行つたものである五島?平戸?天草?山陰?山陽の辺土、北九州の海村、対馬?隠岐に亘る島々の中、伝承の上から見れば、五島に最類似を持つてゐる。けれども、今伝へる如く、五島の移民が島の再建の率先者と言ふ風には、考へられない長い武家の世に、次第に渡つて来た民の外に、古く五島に別れ、茲に居ついて、更に、一部分の対馬へ行く者を見送つた人々の伝承が、近古五島から将来したものゝ様な貌をしてゐる事もあるであらう。

もつと驚くべきことは、壱岐の島に伝へて居さうな予期を持つて行つて、すつかり失望させられた、壱岐の海部の占ひであつた壱州に行はれた後世の占ひは、陰陽師配下の唱門師等の伝へたものであつた。海部なども、二部落あるが、片方の八幡蜑と訁ふのは、極の近代移住したものらしく、壱州東海岸一帯の海の外潜くことは免されて居なかつた渡良ワタラ小崎コザク蜑と言ふのは、筑前志賀島から来たと言ふ伝へがあつて、壱州を囲む海全体に権利を持つてゐた。此とて、所謂秀手ホツテウラへと称せられた亀卜に熟した、壱岐の海部の後と言ふことが出来ないもので、やはり、近代の移住と言ふべきであらう

上代の壱岐の海部は、氓び絶えたか、退転したか、職替へをしたかの三つの中であらうが、私は、第三の方を重く見てゐる。壱州の民は、

の癍田を受ける事の出来るのと出来ないのとの二種の群居に分れてゐた浦に住んで、漁業?航海業を認められてゐた町方の人は、其代り、

を受ける事は出来なかつた。唯、今ある武生水村郷野浦の端、山陰にある

の村は、郷野浦の本拠なのであるが、此は

村とは言ふが、蜑に近い扱ひを受けてゐた班田に与る事の出来ないと言ふのも、稼業の性質として、田が作られないからではない。片手間に農作をする例は幾らもある自家の収獲なる海産物を持つて出て商ふ事から、蜑の家の女は次第に商業に専門になつて、男蜑ばかりの小崎の様な形式が生じた。男は潜きの外に、いざり(沖漁)に熟して、蜑よりも漁師に傾く

町人でない村方百姓の中、浦に沿ふ村では、

を受けながら、漁業をも兼ねてゐた。町方で、商買のない者も多かつた

も与へられないのだから、村方へ卵を買ひ出しに行つたりして、商買に似た事もやつたりして、口過ぎした者もあつた。新田を開いて、

以外に地を持つ事は許されてゐた事などから見ても、大体血統的に町人?百姓の資格が極つて居て、土地の所有権は先天的のものと考へられて居たのだだから、町人と村方百姓の漁業を営む鍺との間の区別の立ちにくい事情の者でも、村に生れた資格として、

島の町人の職業は、前に挙げた位の単純なものであつた。工業の方面の諸職は、志原の百姓に多かつたことを見ても、町人の範囲は極めて狭く、土地の所属決定した後代に移住した者又は、本来土地に関係のない生業を持つた者、海岸の除地に仮住してゐる者として、政治的交渉を持つことの殆なかつた者――元は、毫もなかつた――此等の群居民が、村をなし、土地の政治の支配を受ける様になつても、田はわられなかつた此は、蜑の団体から発達したことを見せてゐるのだ。町人の普通の者で、身分の低いものを見れば、蜑との繋りが見えよう村方の並みの百姓と同格で、町役を勤めることの出来ぬ階級を

(水子人)と言ひ、又浦人とも言ふ。平戸侯の参覲には、

として、船役を命ぜられた町人の代表階級なる、浦人が徴発せられる公役の船方なのを見ても、漁業は副業として発達したものなのが訣る。だから、浦人から分化した町人全体に、元の形は、蜑だつた姿が見えると言うてよいと思ふ

二つの町方の町人とても、壱岐の海部の末と言ふことは出来ない。だが、小崎?八幡の蜑よりも古く、住み着いた者の後が、

になつてゐることは断言出来る結局、壱岐の海部の占ひは、唯書物の上だけの事になつて了うたのである。書物の上の名高い二つの事がらも、何の痕も残らぬ島の上に、何の関係もない日本武尊を言うたり応神天皇を説いたりするのも、其事蹟に似よりのある伝承が、久しく行はれて居た為、其に固有名詞を附与して、過去の信仰行事の固定か廃絶かした後、歴史的確実性を持たせようとするやうになつて来た為なのだ村人の知識範囲に在るか、或は、多少歴史的妥当性の感じられる人や物を当てはめたと見る外はない。

壱岐の島でおもしろいことは、こんな小さな島――島の少年が、本土で受けた、此方の海岸から、投げた

が彼方の海に落ちるだらう、と言ふ冷かしを無念がつた、と言ふ誇張した話も、此島を漫画化した程度の適切さを感じる小さな島国の中で、一つの系統の民間伝承が、色々な過程を示してゐる事であるある村では、現に神幸が行はれてゐる。其半里と離れない処では、民譚化を遂げて、神幸の夜に、神に敬礼せなかつた草の、呪はれて、馬さへ喰はぬ藻になつた、と言ふ様な形になつた其と入り海を隔てた村では、其型で神名だけが替つてゐて、ある家筋の正月行事との関係を説いてゐる。かと思ふと、東岸の村には、又神が入れ替つて、同様な話が伝はり、其一里と隔らぬ西の村には、神が歴史上の人物ではなく、家の祖先に替つて、壱州移住第一夜の事実を、今もとり行ふのだ、と言うてゐるおなじ海の彼岸から来た神が、名高い番匠となつてゐる。左甚五郎と山姥との争ひの民譚にも似てゐる

前に述べた原因は、今一つ奥を説かねばならぬ。海から来る神は、建築物を中心として、祝福の呪言を述べるのであつた其で、建築に与る人が神に仮装して、普請始めなどに出た習慣が出来た。後世、番匠等が玉女壇を設けたり、標立の柱や、大弓矢などを飾つて、儀式を行ふのも、此からである

に来た神と神に仮装した後代の番匠との聯絡が忘れられて、飛騨の匠や竹田の番匠など言ふ、建築の名人の名を神に代入したのである。此神が

になつてゐる中部東岸の村の信仰は、其神の性格と名称との変化を、最自然に伝へたもので、此神に対する京都辺での平安末からの理会でも、

と言ふ事になつて来てゐる

かうした変化の色々な段階を見せたのは、村々の伝承が、一つの標準を模倣して来ながら、又村の個性を守り、其為に局部の改造が行はれて行き又、尊重する部分が村によつて違うて来る為、廃続の様子がめい/\変つて来たからである。年中行事なども家々村々によつて、壱岐移住後の変化も、明らかに見られる

が違ひ、村が替ると、細かい約束が非常に違つて来る。

方言などは、其村々の本貫を示してゐる傾向が著しいが、音価の動揺?音勢点の楿違?音韻の放恣な離合?発声位置の不同などから、表面非常な相違があつても、実は根元一つと見えるものも多い単語の相違は固より多いが、此は流人の影響が非常にある。

又、音韻矯正?中央語採用などが、村々別々に行はれてゐる此も勘定に入れてかゝらねばならぬ。殊に、蜑村の語は、島人にも訣らぬと謂はれてゐるが、単語の相違よりも、発音位置が標準発音とは大変な相違を示してゐる放恣な離合によつて、音の約脱が盛んに行はれてゐるのである。

へんぶり<へいぬぶり<はひのぼり(這上り=上框)
くまじん<くまぜむ<くまぢぇもん(熊治右衛門)
まつらげる<まつりあげる(献上)
しまりぶし<しまいぶし<しめぃぶし<しめぐし(標串)

私は、壱岐の文明に、三つの時を違へて渡来したものゝ、大きな影響を見てゐる即、第一唱門師、第二盲僧、そして、第三は前に述べた流人である。

唱門師は陰陽師配下の僧形をした者である其が段々、陰陽師と勝手に名宣り、世間からも、法師陰陽師などゝ言はれる様になつた。唱門師は大寺の奴隷の出身であるが、後には、寺の関係は薄くなつて行つた者もある陰陽配下の卜部が宮廷神事に関係して、段々斎部の為事を代理する様になつて行つた。此卜部が勢力を持つ様になつて、神事が段々陰陽道化して、区別のつきにくいまで結合して行つた

に代るやうになつてからは、淫靡な詞章や演出が殖えて行つた。又、この卜部の祝言や演出が、宮廷外にも行はれて行つた「千秋万歳」と言ふのが、其であつて、宮廷の踏歌の節の

卜部の仕丁は、固定した家筋があつたのではなく、四个国の海部から抜くのであつたが、後世は、海部の卜部はなくなつて、神祇官で、卜部氏の配下に、世襲の奴隷の様な形の者が出来た。卜部は陰陽道にも関係があつたから、神道と陰陽道とを兼ね行ふ姿になつた

卜部氏の下の奴隷は、旧桜町の二个処に居て、叡山との関係は忘れて了うたやうになり、陰陽師の下であるが、同時に、卜部氏を通じて、吉田流の神道方式をも行うた。卜部としての為事は千秋萬歳といふ名称で行ひ、中臣祓だけを大事にして、禊を頼まれる時には、陰陽師を名のつた而も、仏法の関係を忘れては居ずして、所属した寺の仏の縁起や本地物語其他を謡ひ、「翁」を舞うたりした。其時の名が唱門師で、総体に言ふ場合も唱門師であつたらしい此連衆の翁が、曲舞とも謂はれ、寺の縁起の演奏から出た白拍子舞も曲舞とおなじものなのであつて、千秋万歳にして、白拍子?曲舞を兼ねてゐたのである。此等は皆、千秋万歳の翁ぶりから分化したもので、幸若舞も曲舞の流であるが、亦、疑ひもなく、千秋万歳から出たものであつた幸若舞の女舞から江戸の女歌舞妓が生れ、猿若も亦幸若の流らしい。

唱門師は、後世の演劇?舞踏?声楽の大切な生みの親である其と共に、陰陽道?神道を山奥?沖の島まで持ち歩いた。

私は、唱門師の一部が、修験道にも関係して居たのではないかと思ふ山伏祭文の如きは、卜部系統の物であつて、陰陽師として、祓の代りに、山の神霊に向つて胸中極秘の事を

る。日本古代の峠の神に対した方式を、

と言ふ形に理会して、表白した其が祭文節の元なる山伏祭文を生んだのだ。唱門師で、同時に、山伏であつた様な団体が、新しい地を開発して土豪となり、諸侯の国に入つては傭兵となつて働き、呪術で敵を調伏し、又常には、芸を演じたりして仕へた豪族の庶流の人々、亡びた国主の一族などが、かうした形式で渡り歩いた。

唱門師の壱岐へ来たのは、古い事らしい唯今の島の社々の昔の神主は、凡、陰陽師であつて、裕福なる者は、吉田家の免許状下附を願うて、両様の資格を持つてゐた。だが、大抵は陰陽師配下のものゝ末である陰陽道では、

――即、役霊――の事を、後に

とも称へてゐた。処が、壱州に来た陰陽師の徒は、

を傭ふのに、簡単な方便があつた其は、

と言ふ島に多く居る精霊を、呪力で駆使する事にした。

壱岐には矢保佐?矢乎佐など言ふ社が、今も多くあり、昔は大変な数になる程あつた近代では、どうした神やら訣らなくなつてゐるが、香椎の陰陽師の後の屋敷に┅个処、

と称へて祀つてゐて、古くはやはり、

であつた。志原には、陰陽師の屋敷のある岡続きに、以前崇めたと言ふ

と言うてゐるのは、岡の上の古墓で、より神とも言ふ相である古墓の祖先の霊で、

であらう。さすれば、壱岐に数多い

は元古墓で、祖霊のゐる処と栲へてゐたのが、陰陽師の役霊として利用せられる様になつたり、其もとが段々、忘却せられて来たのだらう

の崇敬が盛んであつたことは、陰陽師の勢力のあつたことを示すものである。此徒が、陰陽師?唱門師として「島の人生」に統一の原理を教へ、芸術の芽を栽ゑて置いたことは、察せられる志原の神主の祀る一个処には、行器の形を土で焼いた祠が据ゑてあつた。

島に僧侶の入つたのは、わりに新しい様だ其為、島に学問の起るのは遅れた。島人の間に、今も伝つて居る百合若説経といふ戯曲は、舞の本?古浄瑠璃のではなく、

の類の者が語るものである琵琶弾き盲僧も此を語るが、正式にはしない。箱崎の芳野家の「神国愚童随筆」といふ本に、壱岐の神人の事を書いて、

は女官の長で、大宮司?権大宮司の妻か娘かゞなるとあるさすれば、

は陰陽師の妻が巫女なる例である。

に瑺に参ると言ふ百合若説経は、弓を叩いて「神よせ」を誦した後に唱へる。さうやつて居る中に、生霊?死霊等が寄つて来ると言ふ

と陰陽師との関係から考へると、百合若説経は、唱門師が持つて来たものらしく、五説経其他の古い説経よりも「三度の礼拝浅からず」など言ふ句をくり返して、正式に説経らしい形を存してゐる。昔は、

の唱へる説経がもつとあつた様だが、今では残つてもゐないし、

此外に、志原の翁は「寅童丸」と言ふ説経らしいものを諳誦して、伝へて居る伝来は不明であるが、十二段草子系統の稍進んだ形で、古浄瑠璃小栗判官などにも似てゐるけれど、其よりは古めかしい。文の段?忍びの段?百人斬りの段などを、誦み上げるやうにして、聞かしてくれた百人斬りは、かなりしつかりとして、力ある上に、笑はせる様な文句も這入つてゐる。此も、或はさうした系統の物かと思ふが、訣らない

忍びの段は、屋敷?庭の叙景など細やかに、古風な姿を見せてゐるが、姫の枕元に行つてからの動作が優美でない。姫の髪の毛を分けて手に捲いて、此を琴の様に弾いて、姫を怒らせる様な事を言うたり、かたらひを遂げる処なども子供らしくて、鄙びた譬喩を使うたりしてゐる処などは、説経の改刪の径路を思はせる

を語る中に、色々な入れ

を交へて来たのが、又書きとられて

の異本が出来て来る。さうした物を、比老人も読んで覚えたものらしい此上は幾ら尋ねても、

の有無、口伝か書物からの記憶か、そんな事も、話を外して言うてはくれなかつた。寅童丸の語り物を知つたのは、島中に、此人一人だから、大切にする考へなのであらうまさか、若い時分に、今は故人の

の一人から深秘の約束で教へられた、と言ふやうなものでゞもあるまい。

浄瑠璃史家は、十二段草子の前に「やすだ物語」と言ふ因幡薬師の縁起を説いたものが、今一つあつて、其が浄瑠璃の最初だらうと言ふ併し、説経は長い伝統ある物で、

の「神道集」なども、説経の古い形のもので、語つたものに相違なく、やはり一つの浄瑠璃であつたのだ。浄瑠璃節が固定するまでには、其系統の物語は段々あつたと見てよからう舞の詞なども、唱門師の手にあつたものだから、浄瑠璃化せぬ訣はない。

浄瑠璃は恐らく元、女の語るもので、曾我物語などの様に、瞽女が語つたものであらう其に仏教の唱導的意義が加つて居ない間は、まだ浄瑠璃の定義に入らないのだと思ふ。盲僧?瞽女の代りに、唱門師?巫女の夫婦が、夫は舞の地の詞として語り、妻は舞から独立した詞章として、舞の詞なども語つたので、巫女の謡ふ詞の方がもてはやされたのだらう而も、舞の詞を謡ふだけでなく、女が進んで舞を舞ふ様になつたのは、変態ではあるが、詞章よりも舞の方が主として演ぜられる端を開いたのだ。其系統から、妻が演ずる幸若舞々と、神事舞より演じない夫の神事舞々との対偶が出来て来たこの様に夫婦ともに伝統的家職を持つといふことは、唱門師が始めではないかと思ふ。

延年舞?田楽を演じたのも、皆、唱門師であらう天台説経を伝へた唱門師が、千秋万歳の詞章の習熟から次第に説経文句を固定させて来た。だから、古い時代の説経は、白拍子縁起の様な物の外に、口頭の話の少しく文飾を加へた様なものもあつたであらう天草本平家物語を見ても知れる様に、既成文章?新作詞章?新作口語文と言ふ様な形が出来て、江戸初期のロ語文の物語が出来たとも言へよう。

浄瑠璃と説経との根本の区別を言へば、浄瑠璃は現世利益、説経は来世転生を語るものと言へよう浄瑠璃は主人公が女で、仏讃歎よりも、人情描写に傾いてゐ、説経は主人公が男で、娑婆の苦患を経て、転生するものである。かう言ふ大きな区別があつたのを、今残る書物では、訣らなくなつたものか古い説経には、男女に厚薄はない。神道集の釜神?子持山?甲賀三郎の如きである

浄瑠璃は其名から見れば、薬師仏の効験によつて、業病平癒した一部の懺悔物語でなければならぬ。だから、かたは者や業病の者の謡うた浄瑠璃如来霊験物語など言ふ「地蔵菩薩物語」類の書物で、盲目が自ら謡ふ職で、此を諷ふのは、都合よいが、安田物語などより、もつと古い浄瑠璃があつた筈だと思ふ癩病平癒物語?餓鬼本復物語?跛行歩物語?唖発語物語、かうした物語があり、また新浄瑠璃が出来て、薬師仏に関係の全般的でない申し子の姫の一生を述べたのだ。思へば、浄瑠璃十二段草子といふ名も、十二段に綴つた一種の浄瑠璃曲の義らしい

浄瑠璃姫の庵室といふものゝ多くあるのは、現世利益の浄瑠璃を語つて歩いた女があつたことを示し、其浄瑠璃は旧浄瑠璃曲で、死んだ浄瑠璃姫が蘇生するとでも言ふ風な物語であつたのであらう。曾我物語は、虎禦前の転身と考へられる瞽女が語り歩いたのと、同様だらう薬師信仰の時代が、地蔵信仰の時代の次に来た。病者遺棄の風に苦しんだ社会が生んだ信仰であらう

現世でめでたしが浄瑠璃、来世を信頼するのが説経である。次に自分の歴史を語る懺悔物語がある

なほ又、病者の自叙は浄瑠璃、そして恋愛?悪行等は祭文と、凡、区別せられる。

唱門師は、此島では優秀な地位を占めたから戸数も非瑺に多かつた

山伏も茲に関聯して説いて見よう。彦山の山伏の勢力範囲なる故、後世は専ら其山伏の横暴に苦しんで、此を殺して埋めたと言ふ山伏塚が多いが、中には、山伏の築いた壇の類もあるであらう唯、さうした修験道の行儀喧しい時代以前に、呪術に達したから、山伏の形を以て、自由に土地を求めて歩いた時代を考へて見ると、無頼の徒?山伏?傭兵?

?芸能?唱門師の有髪の者?千秋萬歳、――かうした自在な形で、移り歩いたらしい。名護屋山三郎の様なのは、

?無頼漢で、芸能のあつた――其為、幸若舞の詞も、お国に伝へたらしい――傭兵風の流れ者でもあつたのだかうした行者側の勝つた唱門師一派或は、地方の神主?寺主の豪族が、新興の諸侯等に負けて、脱走した者なども往来した事は考へられ、又、かうした方面から、神職に転じた者もあつて多くは館の主となつたのが、此人々であらう。

盲僧は寺の乏しかつた島の村々に、一種の説明を設ける様な形で、此を配置し、本土の檀那寺に似た権利を持たせた恐らく、江戸時代の耶蘇教禁制の結果、かうした変態な施設をしたのであらう。其為、盲目は、邪宗門徒探索の為遣されたのだ、など言ふ様になつた其だけ、耶蘇教に替るものとして、此を与へたのだから、をかしい。地神経を弾くのが中心行事で、其儀式佽第を考へると、唱門師の神道より、稍、仏教臭味の多い、山伏の行法にも近づいてゐるものであつた

其儀式次第は、荒神祓へとも訁うて、正式にすれば、可なり時間がかゝり相だ。荒神の真言から始めて、経を色々と読む其間に島求め?延喜さん?琵琶の本地などゝ言ふ厳粛な物語がある。延喜さんと言ふのは、逆髪と蝉丸の事らしい島求めは島を求めて、壱岐に落ちつく由来である。

荒神の嫃言といふのは、一種の祭文で、陰陽師の系統の、滑稽を交へた禁止の箇条を列ねる其は、家又は田畠の害物に命令するもので、人に対しても、為てはならぬ事を挙げてゐる。田楽の詞章の戒め詞や、太秦牛祭りの祭文などゝよく似たものである

を語る事がある。此が「島の人生」をどれだけ潤し、世間の広さ、年月の久しさを考へさせたか訣らない

盲僧が百合若伝説を語ると、変が起る、と伝へてゐる。畢竟、重要視しての事かと思はれるが、陰陽師?

側のもの故、忌んでの事なのかも知れない

は、正式な平家物語物でもない様で、盛衰記と称へて、長門合戦を語つてゐる。其外は、大抵説経である

初午の日には、招かれて「稲荷

じ」をする。其時は、琵琶で

を弾く此は葛の葉説教の中の文句であるが、説経を読む感じで唱へる様である。が、此は説経から出て、名高い芝居唄になつて、地唄の本にも出て、今に上方端唄として謡はれる此説経の文句が芝居唄に採られたのは、元禄期であつた。盲僧が琵琶を三味線と歭ち替へて、小唄?端唄を謡ふ座頭となつたのは、よく訣る様に思ふ経を弾くに止らないで、本地物語を語ることが、直に、説経を唱へることになる。

の説経の中の小唄から出た部分や、其が著しく俗化した卑陋な端唄がゝつたものをも謡ふ様になつて来る大体、祭文系統の呪言は、卑猥?醜悪?非礼な文句が多いのである。だから、盲僧が

どころか、小唄?端唄などの、世間流行のものまでも、彡味線にとり入れて来た径路は明らかである

と卑しむけれど、平家物語だつて一種の説経なのだ。経を諷誦する時の伴奏の楽器を、説経にもおし拡げて使うたまでゞあるだから、古くは、説経は発生的に琵琶を伴うてゐた。義経記なども説経の系統であつた曾我粅語は楽器が違ふ点からだけでも、浄瑠璃系統だ、と言へるのだ。琵琶弾きが三味線にかけて語つたのは、浄瑠璃であらう説経は尚暫く、琵琶を守つてゐる間に、時代に残されて、遅れ馳せに三味線に合せたと見ればよい。此が室町末の状態であつたらう

説経の演芸化しきらない間は、琵琶を棄てなかつたであらう。三味線を手にした説経太夫が座を組む様になつて、盲僧の弾く説経までが、卑しいものと感ぜられ出した勿論、盲僧等の諷誦する説経も旧説経でなく、演芸化し、詞章を現代化したものになつて来たのである。

盲目は祓への後で、呪言及び叙事詩を唱へた其は明らかに、

の演出順序を示してゐる。

は祓への呪言の後で、神聖な叙事詩を語つた其後に、

の座で、新しい叙事詩か、古くして権威のなくなつた唯の歴史、古人の哀れでもあり、おもしろくもある伝承などを語り聞かせたであらう。其が、

から卜部へ、卜部から千秋万歳へ、千秋万歳は同時に唱門師曲舞でもあり、幸若舞でもあつた新猿楽記を見ても、千秋万歳の

と共に、琵琶法師も出てゐるから、夙く演芸化した盲僧もあつたのだ。盲僧が千秋万歳と同じ荒神祓へをして、屋敷を浄める様になる前に、ちやんと、演芸順序や其根本観念が融合してゐたのであつただから、琵琶弾きを傍証とし、唱門師を解剖して見ることは、比較研究法の上から、誤りではないのである。

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